西ヨーロッパを恐怖に陥れた「ヴァイキング」は何者?真相をわかりやすく解説
ディズニー映画の『パイレーツ・オブ・カリビアン』など、エンターテイメントにも登場することが多いヴァイキング。航海をしながら船を襲って金品の略奪を繰り返す集団というイメージですが、本当の彼らは領土侵略もしていたとか。西ヨーロッパを驚愕させたヴァイキングって、どんな集団だったのでしょう。真相に迫ってみたいと思います!
- 1.ヴァイキングはどのように侵略していった?
- 1-1ヴァイキングはとっても怖い存在だった
- 2.勢力を広げていくヴァイキングたち
- 2-1ヴァイキングの始まりは急激な人口の増加?
- 2-2極寒の地から脱出するノルウェーヴァイキング
- 2-3激化するヴァイキングの侵略
- 3.ヴァイキングは小さな組織だった?
- 3-1都市的集落作りが行われていたヴァイキング時代
- 3-2ヴァイキングの戦士はプロだった
- 3-3ヴァイキングが支配する世の中へ
- 4.ヴァイキングの戦い方って?
- 4-1陸上でのヴァイキングの戦い方
- 4-2ヴァイキングの船も立派なものだった
- 5.ヴァイキングは現在も人々に語り継がれる壮大な歴史スペクタクル
この記事の目次
1.ヴァイキングはどのように侵略していった?
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西ヨーロッパで勢力を奮っていた西ローマ帝国が事実上滅亡した後の8世紀ごろから、新しい文化を引き連れて突如として現れたのが「ヴァイキング」です。かつて、ノルウェー、スウェーデン、デンマークの3つの国は、 スカンディナビアと呼ばれており、ここに住んでいたスカンディナビア人が、ヴァイキングになったといわれています。
1-1ヴァイキングはとっても怖い存在だった
東西ヨーロッパに現れたヴァイキングは、793年にイギリス・ノーサンバーランド州にある小さな島のリンディスファーン修道院が襲撃されたことから始まり、1066年のスタンフォード・ブリッジの戦いで、ハラルド・ハルドラーダ軍が滅びるまでの約250年間に渡って海賊行為を繰り返しています。
西ヨーロッパ全土を脅かす存在だったヴァイキングは、テムズ川からヴォルガ川までを拠点とし猛威を奮いました。これは、現代ヨーロッパ形成のもととなっています。西ヨーロッパのキリスト教の人々は、「主よ、我らを荒くれ物からお守りください。」と願う毎日だったとか。キリスト教に改宗したことで知られるカール大帝も、いきなり襲ってきてパッといなくなるヴァイキングには手出しできず肝を冷やしていました。
先ほど少し触れたように、ヴァイキングが消え去ったスタンフォード・ブリッジの戦いはキリスト教徒による影響が大きかったようです。サーガ(サガとも)と呼ばれる、アイルランドで成立した叙事小説があります。これらの小説は、12~13世紀にヴァイキングが残した歴史を英雄伝説として数多く描かれました。
2.勢力を広げていくヴァイキングたち
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ヴァイキングは実は、小説や映画などで見る荒くれ物とは違うものでした。略奪や侵攻を繰り返し、当該エリアの人々を震え上がらせていたのは事実です。それは偏見で、人が住むところを求めて移動し、定着して自然と鎮静化したというのが最もらしいヴァイキングの姿なのかもしれません。
2-1ヴァイキングの始まりは急激な人口の増加?
ヴァイキングは、昔のノルウェー語の「ヴィーキング(vikingr)」が、英語読みとなったもので、言葉の意味の語源は分かっていません。ヴァイキング時代の石碑などにも「vikingr」と刻まれており、サーガなどでも多く見られ当時から呼ばれていました。
初期のヴァイキングは北方の独立した社会の人々がはじまりで、スカンディナヴィア半島を拠点にノルウェー、スウェーデン、デンマークなどの王国を作りました。彼らは、共通の言語を話していたという事実も確認されています。
ノルウェーヴィークというフィヨルド(入り江)を拠点に、外洋の船舶を襲うようになりました。ヴァイキング時代の直前に、人口が劇的に増えたといわれています。
2-2極寒の地から脱出するノルウェーヴァイキング
北欧グッズは、日本でも人気の高い雑貨ですね。それらの中には、極寒の地だからこそ作られた独特なものも多いのでは?スカンディナビアの人々は農耕で生計を立てていましたが、農業ができる期間も土地も少なく、人口の増加に耐えられなかったようです。
810年ごろには、戦利品を狙って外洋の船舶を襲う活動から、各王国が領地拡大に乗り出していました。火ぶたを切ったのは、ノルウェー人です。アングロサクソンのイングランド沿岸沖合のリンディスファーン島にある修道院を狙いました。奪略に成功したノルウェーのヴァイキングたちは、イングランドに何度も侵略を繰り返すようになります。他にもスコットランドやアイルランド、アイスランドやアメリカまで活動範囲を広げました。11世紀のはじめには、シチリア島に国家を建設しました。これは他の2王国にも影響を及ぼしています。
スウェーデン人たちは、東方へ向かいバルト海の先にあるロシアに目をつけ進出しました。実は、ロシアとの名前をつけたのは、ヴァイキングだったんですよ。その勢力は、当時巨大な交易拠点となっていた、コンスタンチノープル(現:イスタンブール)やバグダード(現:イラクの首都)にまで達しています。
2-3激化するヴァイキングの侵略
デンマーク人たちは、イギリス海峡を沿うように、イングランドの中部や北フランスを自治領としました。毎年のように襲っており、当時の修道院の記録に「彼らは突然現れては全てを掻っ攫って行く。」と書いています。フランス西部の都市ルーアンは奪略された後焼き払われ、パリやボーヴェ、モーなども占領、シャルトルも占拠されました。
9世紀の中ごろになると、フランスの川沿いに定住をはじめ、温かくなると内部へと進行して行きました。その後、ロワール川から南下し、北アフリカを目指し地中海へと進行して行きます。アルルやニームなど近隣の都市も襲い、イタリアではピサを攻め落とし焼き払いました。イングランドを征服しようと企んだのも彼らです。テムズ川の河口からリヴァプールのある西海岸までを手中に収めました。ここからこの地方はデーンロー地方と呼ばれるようになったのです。
3.ヴァイキングは小さな組織だった?
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ヴァイキングの始まりは、組織化されていませんでした。バラバラに活動を行うことが彼らの恐ろしさのひとつとされていますが、一節によると集団をまとめる王がおり、王を守る護衛がいたといわれています。また、ちゃんと法律まであったとか。
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