イタリアヨーロッパの歴史

それでも地球は回っている「ガリレオ」の生涯と研究をわかりやすく解説

『それでも地球は回っている』この名言を聞くとガリレオのことを思う人もいるかもしれません。しかし、この名言は後の世に作られた創作だと言われています。 でも、どうしてガリレオがそんな名言を言ったみたいな形となったのでしょうか?そこには当時の宗教観と科学の関係性に挑み、自らの研究結果を信じたガリレオの生涯があったのでした。 今回はそんなガリレオの生涯と研究について解説していきたいと思います。

ガリレオの生い立ちについて

image by PIXTA / 14779532

1564年、ガリレオ・ガリレイはイタリア北部のピサに生まれました。ピサといえばピサの斜塔が有名ですが実はイタリアというのはこの頃はドイツと同じく諸侯が寄り合い所帯で存在しているような国でして、この頃のピサはトスカーナ大公国という国が支配していました。

ガリレオの前半生

1564年、日本では戦国時代も佳境に入っていた時期にピサに音楽家の父の下で生まれました。

ガリレオは元々は医者を目指してピサ大学に入学したのですが、この頃の医者の手術がノコギリでギコギコ削っていくようなものだったことがあり医者を目指すことを断念。そんな時にとある講義にてユークリッドの幾何学について学んだことをきっかけに数学者への転向。ピサ大学を中退して科学者の道を歩み出すことになりました。

実は敬虔なクリスチャン

ガリレオといえば宗教と真っ向から対立したイメージがありますが、実は彼は昔からのローマ・カトリック教会の信者。これは生まれたところがキリスト教の総本山であるローマに近かったこともありますが、彼は2人いた自分の娘をカトリックの修道院に入れて修道女にさせました。最終的にはカトリックと対立することになるのですが根っから宗教に反発していたことではなかったのですね。

ガリレオが見つけました!色々な彼の業績

image by PIXTA / 23601665

ガリレオは名前だけは聞いたことがある人が多いのですが、彼は後の世の科学の発展の基礎を作る様々な発見をしていました。

次はそんな彼の業績についてみていきましょう。

金星の満ち欠けと木星の衛星の発見

ガリレオは1608年にオランダにて開発された望遠鏡に目を付け始めます。元々望遠鏡はおもちゃみたいな目的で使われていましたがガリレオは望遠鏡を改良してオランダで発明された望遠鏡の20倍の性能を持つ望遠鏡を開発。

それを使って彼が興味を持っていた天体に向かって覗いたのです。

そこにはこれまで信じられていたことが覆させるようなものばかり。元々ツルツルとしていたと信じられていた次の表面が本当はクレーターといって隕石が衝突した跡が残っていることが判明。

さらに1610年には木星を回っている4つの衛星を発見しました。のちにこの4つの衛星はガリレオ衛星と呼ばれることになるのですが、この木星の衛星の発見はこれまで信じられていた地動説という考え方の根底を覆るようなものだったのです。

この地動説がどのように崩れたのかはのちに解説するとしてガリレオはさらに金星が月のように満ち欠けを行うことや、大きさが若干違うということを発見。彼の代表的な考えとなる地動説の証明となり天文学に名を残すような業績を残しました。

落体の法則と振り子の等時性の発見

ガリレオは天文学だけではなく物理学の分野でも多大な功績を残しました。

例えば有名なのが落体の法則。この落体の法則の発見の時のエピソードとしてピサの斜塔から大きい球と小さい球を両方落として同時に落下したことによって証明した話があるのですが、実はあれは弟子の創作によるものだという説が浮上しており正確なものとは言えません。しかし、ガリレオが斜めに置いたレールの上に大小違う球を乗せて証明したというのは文献や絵画にも残されており実際にやったということが残っています

また、ガリレオは振り子の等時性を発見。これは簡単に言えば振り子は大きく揺れていても小さく揺れていても同じ時間で往復するというものであり、これがのちの振り子時計の原型となる法則となりました。

ガリレオの最大の挑戦〜宗教と科学の違い〜

image by PIXTA / 41306371

ガリレオは天文学に多大な功績を残しましたが、この頃の科学というものはルネサンスで古代ギリシアの科学が再認識されていったものの基本的にはキリスト教の宗教観に合わせたものであり、それにそぐわない発見を主張した人には例えそれが正解であろうがなかろうが異端とされてしまい火刑にされることがほとんどでした。しかし、ガリレオはそんなことを御構い無しに地動説という考えを主張していきました。

次のページを読む
1 2
Share: