秩父事件へ至った背景とは?
戊辰戦争や西南戦争といった内戦が終わり、明治の世を迎えて近代化に拍車が掛かる日本。なぜ秩父の民衆が武装蜂起をしてまで事件を起こさねばならなかったのか?まずはその理由を探っていきましょう。
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古くから養蚕業が盛んだった秩父地方
秩父地方の絹織物は江戸時代に始まりました。年貢として納入する絹織物は農家の副業としてとても大切なもので、江戸でもその製品は大変人気があったようです。
必然的に養蚕業(カイコ蛾の幼虫に糸を吐かせて繭を作らせる工程)も盛んとなり、多くの農家がそれに従事しました。やがて明治となって全国各地で殖産興業が興ると、品質の良い日本の生糸を海外へ輸出するべく生産量のアップが図られました。秩父や甲信地方の繭の多くが官営富岡製糸場へ納入されていたのです。
やがて日本の生糸輸出量は飛躍的に増え、貿易によって獲得した外貨は日本の富国強兵に大いに役立つようになったのでした。
松方デフレによって経済的に困窮する農民たち
明治初年~14年あたりまでの秩父地方は比較的好景気が続いていました。ヨーロッパで広く蚕病(さんびょう・カイコのかかる病気)が流行していたために日本の生糸の需要が高まっていたおかげです。山に囲まれた秩父は耕作地も元々少なく、養蚕を専業にした方が利益になるのですね。そのため秩父の養蚕業はますます発展していくように思われました。
しかし鹿児島藩出身の松方正義がヨーロッパから帰国後に大蔵卿になるや状況は一変しました。彼は日銀の創設者として、のちの総理大臣としても有名なのですが、日本国内にタバコ税、醤油税、酒造税といった大規模な間接税を導入しました。さらに国の支出を徹底的に減らす緊縮財政を打ち立て、国内経済はデフレスパイラルという現象に陥ったのです。松方デフレとも呼ばれていますね。
デフレとはモノの値段に対して貨幣価値が上がっていく現象で、モノが売れずに不景気になります。また企業の業績が上がらないため必然的に給与も減り、失業者も増加しますね。貨幣価値が上がっているので借金を背負っている人にとってはますます負担が重くなっていくのです。
秩父の養蚕農家たちも例外なくデフレによる大打撃を受けました。なぜなら生糸価格が大暴落し、繭を作っても作ってもまったく儲からないというスパイラルに陥ってしまったのです。
この時点で養蚕に頼りきりだった農民たちは途端に生活が破滅に瀕し、中には一家離散や身売りという悲劇も起こりました。「このままでは皆共倒れになる。何とかしなければ。」そんな思いを一様に抱いていたことでしょう。
秩父の人々に受け入れられた自由民権運動
板垣退助が自由党を結成し【自由民権運動】を起こしたのが明治14年のこと。早くも翌年には中庭蘭渓、若林真十郎の二人が党員となって秩父で活動しています。「生糸のみち」だった秩父往還があったため、各地からさまざまな人々の往来があった秩父には新しい情報が入って来やすい土地柄だったといえるでしょう。自由民権思想もまたその一部でした。
明治17年2月、自由党幹部の大井憲太郎が秩父へやって来て演説し、共感した多くの者たちが自由党への入党を希望したそうです。また多額の負債に悩む農民たちは各地で山林集会を開き、秩父困民党という集団を形成していきました。秩父困民党員の多くが自由党へ入党していることからも明らかなように、「自由民権」という考え方が広く秩父に浸透していったといえるでしょう。
自由民権運動の目的は、「国家の為と言いながら国民を犠牲にする理不尽な政府の打倒」であり、広く国民の意見や考え方を国会で反映させねばならないというものでした。専制的に物事を進めようとする政府をこらしめるべく、全国各地で過激な騒擾事件が多発していたのもこの頃のことだったのです。
「秩父事件」勃発!立ち上がった秩父の民衆たち
秩父事件はいきなり農民たち民衆が暴発して起こったものではありません。あくまで平和的な話し合いによる解決を図ったものでした。しかし彼らが救われる道が閉ざされた時、そこには武力蜂起という方法しかなかったということになります。「自暴自棄」という言葉はあまり適当ではないのですが、そこには「生きるための戦い」という側面が透けて見えるのです。
叶わなかった請願活動
明治13年に公布された【集会条例】によって集団・結社による政治集会は禁じられ、明治17年時点での全国的な自由民権運動は徐々に下火になりつつありました。しかし日々の生活すらままならなくなっていた秩父農民たちが目指したのは、あくまで合法的で平和的な請願活動だったのです。
高利貸したちが暴利をむさぼる現状を見かねて、困民トリオと呼ばれた落合寅市、高岸善吉、坂本宗作らが奔走。秩父郡役所に掛け合って、これ以上の横暴を控えるように請願しています。また各地の山林集会も警察当局の弾圧にも屈せず次々に開催され、負債に苦しむ農民たちの共感を得ました。
明治17年9月になって、困民党総理として迎えられた田代栄助や加藤織平などが合法的手法による解決を目指して秩父警察署へ請願を行っていますね。
高利貸しらに対しては「借金の10年据え置き、40年間の割賦」を求め、官に対しては「学校の一時休校、諸税の減免」を求めました。学校の一時休校というのは、困窮した農民たちには授業料を支払う余裕すらなかったからです。
しかし、それらの請願運動も水泡に帰してしまいます。官側は請願を一切受け付けず、高利貸しらも要請を拒否していっそう苛酷な取立てを行ったからでした。
こうして全ての平和的な話し合いが拒否され、彼らの生き延びる道が絶たれた時、困民党が取るべき道は一つしかありませんでした。