幕末日本の歴史江戸時代

「江戸無血開城」とは?奇跡だった?!勝海舟の目線で解説

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ちょっと雑学

会談場の周辺には薩摩藩がウロウロしており殺気立っていました。また、会談の隣の部屋には、人斬り半次郎と呼ばれた幕末最強の薩摩の剣士「中村半次郎」らが控えていたのです。中止を言い放った西郷自身も、さぞ肝が冷えた事でしょう。

4-6江戸無血開城の決着

江戸城無血開城交渉の結果は、

・徳川家の家名は存続。慶喜を水戸で謹慎させる事。(海舟案)

・江戸城は条件なしに新政府軍へ明け渡す事。(西郷案)

・徳川家の軍備、軍艦の全てを新政府軍に明け渡す事。(西郷案)

でした。

静岡会談並びに三者会談の結果を、20日に京へ伝え承認させます。総攻撃が行われなかった事に不満だったのか、江戸を焼き討ちにすれば、築地が戦火に遭い国際的に窮地に追い込まれると、西郷は力説したとか。

西郷は25日に駿府へ帰り、4月4日には西郷、橋本実梁、柳原前光のわずかな数人が江戸城に入りました。少人数だったのは、旧幕府軍の心中を思っての事です。西郷は自信の暗殺を予測しており、実行の際は江戸四方に置いた官軍が風上から火を放つ手はずでした。

慶喜は水戸へ去り、徳川家は駿府で70万石を与えられました。西郷が政府の要職に就き、征韓論に関する政変で野に下り帰郷します。その後、明治政府に不満を爆発させた志士らと朝敵の立場で明治10(1877)年に西南戦争を起こし享年51歳で自刃。海舟は西郷の名誉回復に奔走し成し遂げます。明治31(1898)年に上野に西郷隆盛の銅像が立てられたのを見て、1ヶ月後に77歳で亡くなりました。

江戸無血開城の成功には、勝海舟と西郷隆盛の信頼関係があったからこそ

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勝海舟が新政府軍の参謀が西郷隆盛と知り、ほっとしたようです。4年前に出会った時少し話をしただけですが、既に西郷の人柄を見抜いていたとか。西郷も本文中で語った通り、海舟に惚れ込んでいます。緊張感の奔る会談の席で、総攻撃中止をいえたのもこの信頼関係からでしょう。二人の信頼関係があったからこそ、血を流さずに明治という新しい日本をスタートできた事は間違いありません。

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