幕末日本の歴史江戸時代

「江戸無血開城」とは?奇跡だった?!勝海舟の目線で解説

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ちょっと雑学

幕末の謎のひとつに龍馬の暗殺があります。実は江戸無血開城にとって邪魔な存在と考えた薩摩が企んだとの説もあるのです。龍馬は薩摩の内情を熟知している上に、慶喜を新政権の盟主に据えようと考えていたとか。これは、倒幕派の薩摩にとっては邪魔な話。お世話になっておきながら、殺しちゃえっといった感じだったのでしょうか…?

2-2大政奉還

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邨田丹陵, Tanryō Murata – 明治神宮聖徳記念絵画館, パブリック・ドメイン, リンクによる

長州征伐に失敗した幕府は、更に権威を失墜しました。これを重く見た慶喜は、慶応3(1867)年10月14日に朝廷に権利を返上する「大政奉還」を打ち出します。これは、今までのような絶対王政ではなく、朝廷のもと幕府と諸大名が会議を開き決議するという提案でした。

海舟は、慶喜を「絶世の姿」と賞賛するも、徳川家の延命を考えただけのものと、西郷ら倒幕派は完全否定したのです。倒幕派は徳川家の官位と領地没収を宣言し、「王政復古の大号令」を発します。これには、慶喜も激怒し、薩長との宣戦布告を決意したのです。“大きな内戦となり最近日本近海をウロウロする西洋列強の関与も否定できなく、日本が植民地支配される事が濃厚だ”と、海舟は危機感を募らせます。

2-3鳥羽・伏見の戦い

颯爽と江戸城に登城した海舟は、重臣に慶喜様の英断を信じ恭順の道を取るよう進言します。帰ってきた言葉は、「薩長とお前は味方同士と疑う者もいる。お前の話は誰も聞かないだろう」という物でした。激怒した海舟は、記名した「憤言一書」という意見書を幕府に提出するも、歴史は戦争へと流れていきます。

慶応4(1868)年1月3日に、遂に旧幕府軍と新政府軍の戦争が始まりました。これが、「鳥羽・伏見の戦い」です。旧幕府軍は既に朝敵とされ、官軍の新政府軍に大敗しました。

当の慶喜は、1月6日に大阪湾でアメリカ軍艦に救われ、翌日、旧幕府軍艦開陽丸に送り届けられます。その後、1月11日に江戸湾に着き、翌日には江戸城に逃げ込んだのです。奇しくも、長州討伐などで京都や近畿を離れられなかった慶喜は、この時初めて江戸城に足を踏み入れたのでした。

3.江戸無血開城

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玉置金司 – The Japanese book “Ishin no yōgaka Kawamura Kiyoo (維新の洋画家 川村清雄)”, Edo-Tokyo Museum (江戸東京博物館), 2012, パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸無血開城は、戊辰戦争初戦「鳥羽・伏見の戦い」の戦後処理だったといわれています。江戸が戦火に晒される事や、旧幕府軍の頭徳川慶喜が死罪を免れ平和的な解決がなされました。それでは、江戸無血開城の舞台の表と裏の両面から見てみましょう。

3-1江戸城で慶喜がした事は?

江戸城に逃げ込んだ慶喜は西上を決意し、関東の諸関所が固められたのです。京都から離脱し、江戸城を主城とした新たな国作りを目指します。その時、西郷は旧幕府勢力の一掃を目指し追撃を決めました。

海舟は慶喜に、西郷率いる薩長軍より海軍力は勝っているので大丈夫でしょう。でも、列強の餌食になり植民地にされる可能性の方が高いと説得します。新政府軍に戦わず恭順を示す方が、得策。無抵抗の者を、無闇に滅ぼさないでしょうと直談判します。慶喜は海舟の説得に応じ、西上を諦め恭順の道を選んだのです。

慶喜は22日に恭順派として側近を選出します。海舟は陸軍総裁に、大久保一翁を会計総裁に、高橋泥舟を遊撃隊頭県軍事委任に置きました。もちろん、海舟は慶喜の決断を受け、内戦を避けるための交渉役の全権を担ったのです。そんな時に、フランス公使のレオン・ロッシュが、軍事的支援を申し出るも慶喜は断っています。

3-2慶喜を信じない西郷

恭順を示す慶喜に対し、西郷は徳川の嘘には惑わされない。慶喜の首を取っておかねば先行き何が起こるかわからないと、2月15日に江戸を圧倒的な軍事力により撃破しようと意気盛んに、一万もの兵を連れて江戸に進軍します。海舟が出した書状は、残念な事に西郷に届かなかったのです。江戸無血開城の2ヶ月前の出来事でした。

外国を知る海舟は、国家は民衆によって成り立ち、民衆を幸せに導く事こそが政治と悟っていたのです。更に、海舟は薩長連合軍の倒幕は暴力でしかない。その先には強い国家はなく、植民地へ突き進むだけとしています。その考えが西郷に届けば…。

一方、皇女和宮も動いており、1月21日に慶喜救解を認めた嘆願書を使者に託し、2月6日に京に届いています。2月11日に慶喜は、絶対恭順を布告した翌日に恭順と謹慎を世に示すため、江戸城から徒歩で上野寛永寺大慈院に入りました。

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