3-3混乱する江戸
新政府軍が襲ってくると江戸中に広まると、家財を処分し江戸から逃げる人が続出します。更に江戸城内も殺気立ち、徹底抗戦すべしとする強硬派が台頭したのです。恭順の道を諦めずに突き進む海舟は、彼らに命を狙われ2月に入り鉄砲で襲われました。身の危険を感じていた海舟が連れていた、護衛に命中し命拾いします。
強硬派を抑える事ができないと感じた海舟は、江戸を真っ赤な血で染めるような総攻撃をさせてなるものかと、西郷の心を動かし中止させようと動いたのです。先ほどの西郷への書状は、この時に書かれており、西郷に書状は届くも知らんぷりをしたという説もあります。
3-4攻撃中止の条件を突きつける西郷
西郷は後に、攻撃中止の条件を伝える使者を送っています。
・慶喜は備前藩にお預け
・江戸城明け渡し
・武器、軍艦の没収
・関係者の厳重処罰
という、旧幕府軍の武装解除と処罰の要求でした。これでは海舟も、強硬派をなだめる事はできません。そんな中に、江戸総攻撃が3月15日に行われるという噂が広まります。江戸が火の海になると警戒した海舟は、漁師たちに総攻撃が起きたら船を出すように頼んだようです。
4.江戸無血開城への会談
江戸の緊張感は、爆発寸前でした。江戸幕府の処遇を問う会談は、慶応4(1868)年3月13日と14日に行われます。一触即発の状況を上手く収め、3月15日の総攻撃にキリキリで間に合ったのです。たった2日の会談で戦争が回避されたという、歴史が動いた瞬間でした。世界的に見ても、稀な事例でしょう。それでは、会議の様子を見てみましょう。
4-1次世代まで恨みは続いた
慶喜が大慈院に入ったと松平春嶽は、2月下旬ごろに何度も寛大な処分をと嘆願しますが、新政府軍には事実上拒否されています。2月21日には上野輪王寺宮が江戸をでて駿府に着陣し、翌7日に大総督宮有栖川宮熾仁親王に面会しました。
12日に大総督宮から、「慶喜の罪は償われていない。謝罪の実効をあげさせるため帰れ。」と命じられます。この態度に輪王寺宮は憤慨し、後の彰義隊や榎本武揚の軍艦に身を投じ、奥羽越列同盟の盟主となる起因のひとつとなったようです。有栖川宮は、15日に総攻撃を掛けると決定しています。
4-2会談までの流れ
西郷が総攻撃の準備は整ったと確信した3月9日に、慶喜の側近泥舟の義弟山岡鉄舟が慶喜の恭順を保証するために現れました。6日に海舟に会い、西郷との交渉の相談をしています。
この時点での西郷の処分案五ヶ条は
・江戸城明け渡し
・豊臣家家臣の向島への移住
・兵器の引き渡し
・軍艦の引き渡し
・慶喜を備前池田家にお預け
でした。条件は慶喜に伝えるが、備前預けの件は耐え難いと激しく反対し、3月13日、14日の再交渉の日を約束し12日に江戸に戻り大久保一翁や海舟に報告します。そして、江戸市中に安寧のお触れが出されました。
案は七ヶ条で、「慶喜の妄挙を助けた物の取調と謝罪、恭順した者は助けるも、鎮定の道筋を立てるべし。」と「暴発すれば官軍が鎮圧する。」という2案もあったとの説もあります。
4-3会談の内容
実は、9日の西郷と鉄舟の静岡会談でほぼ決定していました。後は、確認と追認だけでよかったのです。慶喜を備前岡山藩預けは飲めないため、何処に預けるかが落としどころだったとか。
13日には、西郷が高輪にあった薩摩屋敷に入り、海舟と会談しています。実は鉄舟も同席していたとか。14日は田町の蔵屋敷で会談します。2日の会談での結果は、
・慶喜は水戸で謹慎(水戸で育った慶喜に最適な謹慎場所との配慮から決定。)
・江戸開城(江戸城は、田安慶頼お預け)
・軍艦や兵器の引き渡し
・徳川家家臣は城外で謹慎
・鳥羽・伏見の戦いの責任者寛典
でした。
4-4最後のチャンス!海舟は江戸を守れるのか?
西郷の提案に、「恭順に向かっているから、江戸城攻撃は待ってほしい。」と海舟がいいます。つかさず西郷は「江戸城をすぐに渡されよ。」といったのです。西郷に自分の真意が届いているか一か八かの賭けに、海舟の口からでた言葉は、「江戸城はお渡し申す。武器は如何。」でした。
「即日武器を渡せば、強硬派が立てこもり決起するでしょう。武器の引き渡しは暫く待ってほしい。」と説明します。西郷は暫く沈黙し、「恭順を続けるなら武器の件は猶予する。明日の江戸総攻撃は中止する。」と、いいました。「中止」の一言で、江戸無血開城が決定したのです。
沈黙の間に西郷の頭をよぎったのは、イギリスの外交官ハリー・パークスの言葉でした。「降伏した相手を攻撃するのは国際法違反で、承服できない」というもの。実は、西郷はパークスに、「開戦時公使館を病院として使いたい」と要請しており断られていたのです。パークスの裏には、内戦によって貿易が滞るのを懸念しての回答だったようですが…。
会談の翌日海舟が、「江戸周辺で反乱の動きをする者あれば、徳川の者でも厳しく取り締まり処刑せよ。」と、記した部下への書状が、平成15(2003)年6月に発見されました。会談後も緊張感があった事は明白ですね。
4-5無血開城の舞台裏
恭順派には、慶喜、大久保一翁、篤姫、和宮がいました。主戦派には、榎本武揚、松平容保、小栗忠順、土方歳三、後に彰義隊を結成する天野八郎がいます。新政府軍には、有栖川宮と板垣退助、和宮が慶喜の助命と徳川の存続を嘆願した橋本実梁がいたのです。
薩摩出身の篤姫は西郷に和宮と同じく、慶喜の助命と徳川の存続を嘆願します。でも、板垣退助は慶喜の助命に反対しました。海舟はアーネスト・サトウを通じ、西郷と懇意のパークスに江戸総攻撃に対する協力を依頼していたようです。
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