幕末日本の歴史江戸時代

歴史のターニングポイントとなった「二条城」を歴史系ライターが解説!見どころスポットも

徳川家康、豊臣秀頼の会見の場となった二条城

1611年、後陽成天皇の譲位と後水尾天皇の即位が決まり、家康はそれに先立って豊臣秀頼に上洛を要請しました。秀頼の正室千姫は、家康の孫娘でしたから、いわば親族どうし。とはいえ家康にとっては秀頼と対面することで、「すでに天下は徳川のもの」ということを認めさせ、知らしめたいという思いがあったことでしょう。

家康の孫にあたる松平忠明が記した「当代記」には、出迎えが家康の子である右兵衛督(義直)と常陸介(頼宣)らであり、秀頼を先に御成の間に上げて、対等な立場での会見をしようと家康が提案するも、秀頼が堅く固辞し、家康を先に上げ礼をしたとありますね。

しかし江戸時代中期に真田増誉が記した「明良洪範」にはこうも書いてあります。会見後に家康が家臣の本多正信に「秀頼はかしこき人なり」と語ったとされていて、若くて頭脳明晰な秀頼の存在に危惧を抱いていたとも。ゆくゆくは徳川家にとって災いになる可能性を感じていたのでしょうね。

会見は二条城で行われましたが、饗応の場では、高台院(秀吉の正室寧々)も随伴しました。会見後、秀頼は豊国社を参詣し、大坂城へ戻りました。大坂や京都では会見が無事に終わった事を大いに喜んだと伝えられています。

重要視されなくなった二条城

1615年に豊臣家が滅亡し、徳川幕府は幕藩体制をますます盤石なものとするため、矢継ぎ早に統制政策を推し進めます。「武家諸法度」に始まり、仏教教団を統制する「寺院諸法度」、そして朝廷を法律によって縛り付ける「禁中並公家諸法度」の発布など、天皇や朝廷であろうと関係なく幕府の統制下に置こうとしたのです。

ところが後水尾天皇は、朝廷の権威を失墜させるかのような幕府のやり方に反発。その溝は大きなものになっていきました。そこで幕府は後水尾天皇をお迎えし接待するべく、二条城を大改修。この時に敷地は1.5倍にまで拡張され、御殿には狩野派を中心とした豪華な障壁画が飾られることになったのです。

1626年、行幸(天皇の外出)を二条城で迎え、後水尾天皇の盛大なご機嫌取りが始まりました。この時の様子は二条城行幸図屏風にも描かれ、将軍ら武家の行列や、堀川通を粛々と進む天皇の行列が鮮やかに表現されています。

この時、後水尾帝は歴代天皇で初めて天守閣に登ったといわれていますね。しかし幕府と天皇との溝が埋まることはありませんでした。3年後、後水尾天皇は怒って譲位してしまったのです。

3代将軍家光の頃まで、二条城で将軍を迎えることが習わしとなっていましたが、すでに政治経済の中心地は江戸や大坂に移りつつあり、二条城の重要性が低下することになりました。その結果、二条城にはもはや将軍がやって来ることもなくなり、単に存在しているだけという有様になったのです。

その後は二条在番という留守居役を置く程度で、歴史の中に長く埋もれていくこととなりました。

「大政奉還」の舞台となった二条城

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邨田丹陵, Tanryō Murata – 明治神宮聖徳記念絵画館, パブリック・ドメイン, リンクによる

幕末、徳川幕府は大きく威信を失墜していました。相次ぐ外国船の来航に伴って通商条約を結ぶものの、攘夷派の抵抗に遭って失点を重ね、大軍で挑んだ長州征討も大きな失敗に終わって、その求心力は失われていきました。

そこで最後の将軍徳川慶喜が切り札としたのが「大政奉還」という裏技でした。天皇に政権を返上して幕府を終わらせるというリスクをはらんだものでしたが、外交や政治に疎い朝廷は、必ず徳川家をアテにするはずだと確信していたからですね。大名諸侯の代表としてトップに君臨しようと画策したのです。

1867年10月、上洛中の全国40藩の重臣らを二条城二の丸御殿に召集。そこで大政奉還について意見を求めました。その後、「大政奉還上表」を朝廷に提出し、勅許として認められることになりました。

しかし慶喜の思惑とは違い、薩摩藩・長州藩はあくまで武力倒幕に固執し、旧幕府勢力に対して挑発を繰り返します。その結果、徳川方の暴発を招き、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争へと発展ていくのです。

そう、二条城は徳川幕府のスタートからゴールまでを見届けた城となったのですね。

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