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草原の蒼き狼「チンギス・ハン(テムジン)」の生涯をわかりやすく解説

今からおよそ800年前、モンゴル高原はいくつもの小さい勢力に分かれて互いに争っていました。そこにあらわれた一人の男がモンゴル系部族を統合してモンゴル高原と周辺を征服しました。彼の名はテムジン。のちに、チンギス・ハンと呼ばれるようになる英雄です。チンギスは当時の世界で最強の軍団を作り上げ、彼の騎馬軍団は世界を席巻しモンゴル手国を打ち立てます。今回はチンギス・ハンの生涯についてわかりやすく解説します。

苦難の青年期

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テムジンはバアトル(勇者)の称号を持つイェスゲイの子としてボルジギン氏の名門キャト氏に生まれました。しかし、実力勝負の草原では名門出身というだけでは生き残ることができません。実際、テムジンは父の早すぎる死によって苦境に立たされます。部族が離散し、一かが滅びるかどうかという瀬戸際に立たされたテムジンはどのようにして苦難を乗り越えたのでしょうか。

テムジンの生い立ちと蒼き狼の伝説

テムジン(鉄木仁)はモンゴル部族のボルジギン氏の家に生まれます。父はイェスゲイ、母はホエルン。テムジンの名は彼が生まれた時にイェスゲイが捕らえたタタル族の武将の名でした。

テムジンには蒼き狼に異名が使われることがあります。これはモンゴルの歴史を記した史料『元朝秘史』にはボルジギン氏が天の命令を受けて地上に遣わされバイカル湖からやってきた蒼き狼の子孫であると書かれているからです。

そのころ、イェスゲイはケレイト族の王トオリル(トグリル)を助けることで一気に勢力を拡大。跡取り息子であるテムジンの嫁探しが始まりました。イェスゲイは当時9歳だったテムジンを連れてコンギラト氏の元を訪れます。

その地でテムジンが出会ったのがボルテでした。ボルテはコンギラト氏の有力者であるデイ=セチェンの娘。縁談はほどなくまとまり、テムジンはデイ・セチェンに預けられました。

父イェスゲイの死による部族離散

コンギラト氏の土地から自分の支配地に戻る途中、イェスゲイはタタル族の宴会に遭遇します。イェスゲイは喉が渇いていたこともあり、タタル族に飲み物を求めました。

しかし、タタル族とモンゴル族は戦いを繰り返してきた仇敵同士。イェスゲイが飲み物を求めたことをチャンスと考えたのか、タタル族は毒入りの飲み物をイェスゲイに分け与えます。

飲み物を飲んだイェスゲイは帰る途中にどんどん体調が悪化しました。そして、数日後に息を引き取ります。この時、遺言でテムジンを連れ戻すように命じていました。

イェスゲイの死後、テムジンは遺言に従って部族の長になりますが9歳の族長に従おうと考えるものはほとんどいません。イェスゲイが束ねた人々はあっという間に散り散りになったのです。

テムジンの成長と有能な人物の登用

テムジンの母であるホエルンは苦しい状況の中、テムジンらの兄弟を必死で育て上げました。テムジンの成長を伝え聞いた同族のタイチウト氏の長タルグタイは、テムジンが成長してイェスゲイのように脅威になることを恐れます。そのため、タルグタイは先手を打ってテムジンを捕らえました。

テムジンはタイチウト氏の隷属民だったソルカン=シラの助けを得て脱出。窮地を脱しました。成人し、ボルテを妻に迎えますが苦難はまだまだ続きます。今度は近隣のメルキト族が襲来し、妻のボルテをさらってしまいました。

この時、テムジンを助けたのは父が助けたケレイトの王トオリルやテムジンの盟友であるジャムカです。彼らの助けを得たテムジンはメルキト族を破ってボルテを奪い返しました。

また、勢力を拡大するにしたがって、彼のもとに有力な人物が集まります。四駿と称されたムカリ、ボオルチュ、チラウン、ボロクル。四狗と称されたジェベやジェルメ、スブタイ、クビライなどがその代表です。

テムジンは敵対した相手でも何かしらの能力があれば忠誠を誓うことと引き換えに積極的に登用しました。

モンゴル統一への戦い

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一定の勢力を築いたテムジンはケレイト族の王トオリルの配下に収まることでさらに力を増していきます。徐々に強まるテムジンとすれ違いが目立つようになった盟友のジャムカ。ついに二人は正面から激突します。さらに、テムジンは恩人であるトオリル=ハンとも戦うことになりました。これらの戦いを経て、テムジンは草原の覇者の地位に昇りつめます。

十三翼の戦い~盟友ジャムかとの決別~

ジャダラン氏を率いるジャムカはテムジンと盟友の誓いを結び、テムジンのメルキト攻撃を助けました。あるとき、隣り合って生活していたジャムカとテムジンの部族の間で争いが起きます。

そのころから、二人の関係が冷え込んできたといいますが、勢いを増すテムジンに対してジャムカが警戒を強めたのかもしれません。ジャムカはテムジンと対立するタイチウト氏などを糾合しテムジンに戦いを挑みました。

ジャムカが動員した兵力はおよそ3万。一方、テムジンの兵力はそれを下回るものだったといいます。両軍はダラン=バルジュドの平原で戦いました。両軍が全軍を13に分けて戦ったことから十三翼の戦いといいます。

戦いは数に勝るジャムカの勝利でした。勝利したジャムカはテムジン側の捕虜約70名を釜茹での刑に処したといいます。しかし、戦いの後に勢力を増したのはテムジンの方でした。ジャムカの過酷な処置が嫌われたとも、戦利品の分配で不満が出たともいいますが、定かではありません。

タタル族の討伐とトオリルとの対立

十三翼の戦いのころ、かつてテムジンを助けたトオリル=ハンが危機に陥っていました。ケレイト族の内紛によって国を追われていたからです。テムジンはトオリルを助けて再びケレイトの王とします。

同盟を組んだテムジンとトオリルはかつて父イェスゲイを殺したタタル族を攻撃しました。タタル族が金に背き、対立していることをチャンスと考えたからです。その後も同盟は継続しました。モンゴルとケレイトの同盟軍はナイマン族やメルキト族などの強力なライバルを倒し草原での力を強めます。

強固な同盟はテムジンとトオリルの子であるイルカ=サングンの対立により亀裂が入りました。ケレイトに亡命したジャムカはこの機にトオリルを説得。トオリルは同盟を破ってテムジンを襲います。

高原最強のケレイト族を倒すため、テムジンは起死回生の手に出ますした。トオリルの本隊の位置を探り出し奇襲攻撃をかけたのです。この敗北でケレイト族は壊滅。モンゴル高原中央部でのテムジンの覇権はゆるぎないものになりました。

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