日本の歴史鎌倉時代

蒙古襲来!1度目の元寇「文永の役」をわかりやすく解説

どう戦った?世界最強モンゴル帝国と「文永の役」

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クビライの南宋攻略から発展した「元寇(げんこう)」。あの巨大帝国が、日本に向けて進軍を開始します。その第1段階となった「文永の役」、迫りくる絶対王者に対して、日本はどのように戦ったのでしょうか。戦いの様子を詳しく見ていきましょう。

大規模船団襲来!対馬・壱岐・苦戦が続く日本軍

鎌倉幕府側では、この3年ほど前から、北条時宗の命により、モンゴル襲来に備えた対策が少しずつ取られていました。いつ来るかはわかりませんが、こう何度も威圧的なことを言ってくる国のことです。備えあれば憂いなし。警備を固めておく必要はあるでしょう。

主なところでは、九州の御家人たちによる「異国警固番役」など。大陸からの船が到着する可能性が高い、博多や備前など(現在の福岡県や佐賀県の海岸線)の警備強化を命じています。

1274年(文永11年)10月3日、元(モンゴル)と高麗、あわせて2万とも3万とも伝わる大軍を乗せた大船団が朝鮮半島を出発。船団はまず、対馬に到着します。

今度は、使者を上陸させてまずは話を……など穏やかな感じではありません。モンゴル軍はいきなり弓を放ち、攻め込んできました。島民たちも大勢巻き込まれ、対馬はまたたくまに制圧されてしまいます。

ただ、対馬の武士たちも、ただやられてしまったわけではありません。

事態を重く見た者が数人、決死の覚悟で島を抜け出し、一報を伝えるため、博多湾へ向かいます。

元は対馬制圧後、壱岐へ。ここでも惨劇が続き、多くの命が失われました。

対馬と壱岐の2カ所で勝利を収めた元は勢いに乗り、ついに九州上陸を果たします。

博多湾に集結!見よ!御家人たちの底力

対馬からの知らせが届いたのか、九州の御家人たちが続々と博多湾に集結。迎撃態勢に入っていました。

10月20日、元は九州へ上陸。詳細な上陸地点は分かってはいませんが、動力のない船での移動ということも鑑みると、複数個所に次々上陸していった可能性が高いです。

上陸した元の軍勢は、赤坂(博多の西側にある丘陵地)という場所に陣をとります。

赤坂は、古くから山城が築かれたり、防衛拠点として利便の良い地形をした場所。ただし、モンゴル軍が得意とする騎馬には不向きな場所と考えられていました。元軍がここに陣をはれば有利な戦闘ができる……御家人たちはそう考えていたものと思われます。

この時、菊池武房(きくちたけふさ)という武将の軍勢が、松林に潜む元軍を不意打ち(赤坂の戦い)。敵勢を赤坂から追い払って武功を立てています。

これを見た御家人たちは元軍を追撃。文永の役の主戦ともいわれる「鳥飼潟の戦い」の始まりです。

元軍は「てつはう」と呼ばれる飛び道具で応戦します。てつはうとはいわゆる「鉄砲」のこと。元軍が使っていたものは鉄砲というより手榴弾に近いもので、固い陶器製の球の中に火薬を詰め、投げて爆発させて攻撃していました。

『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』という絵巻物(作者不明)には、てつはうで攻撃する元軍と、騎乗で立ち向かう御家人・竹崎季長(たけさきすえなが)の姿が描かれています。

武器も戦い方も異なる軍同士の戦い。元や高麗の資料では、戦況は圧倒的に日本に不利であったと記されていますが、日本の御家人たちはかなり善戦していました。

モンゴル軍撤退~神風は本当に吹いたのか?

「元寇」といえば「神風」という言葉を思い浮かべる方も多いと思います。

果たして、神風は吹いたのでしょうか。

10月20日の戦いは、両軍に大きな被害をもたらしながら続いていました。

鎌倉時代、武士の主力武器は刀ではなく弓でした。日本の弓はモンゴルのものと比べてとても大きく、飛距離も長いので、元は御家人たちが放つ矢に翻弄されていたようです。

そんな中、大将として前線で戦っていた少弐景資(しょうにかげすけ)が、敵将・劉復亨を討ち取ります。

これを機に、元軍は全面撤退。陸地を離れ、船へと引き上げていきました。

この後、何が起きたのでしょうか。

元は船に引き上げ、一夜を明かそうとしていました。かなりの死傷者を出していましたが、それは日本側も同じこと。戦況としては、まだまだ元が優勢であったと伝わっています。

しかしその夜。雨風が強くなり、嵐が吹き荒れ、激しい波が元軍の船を襲います。

10月~11月頃の玄界灘。海はしけて荒れるものです。船を停泊させて本陣代わりにするわけにはいきません。

陸地続きのロシアや中東を攻めた時とは、勝手が違うのも当然です。

数日後、元の船は博多沖から撤退していきました。

強豪モンゴルが、圧倒的な力を見せつけながら、すぐ帰っていった……。なぜ?何があった?謎めいた元の行動が、後々「神風が吹いた」という話につながっていったと考えられています。

神風が吹いたわけではなさそうですが、10月~11月の玄界灘は冷たい海風に見舞われ、波も荒れがち。それほど激しい暴風雨でなくても、船で一夜を明かすなどほとんど無理だったと推測できます。

多くの犠牲は出しましたが、元は撤退。御家人たちの頑張りもあって、敵を九州で食い止め、京都や鎌倉まで攻め込まれずに済みました。

そして弘安の役へ……最強帝国に立ち向かった「文永の役」

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大国モンゴルの前に「神風が吹いて日本が勝利した」と言われることも多い文永の役。実際のところどうだったのか、現在でもいろいろな説があるところも非常に興味深いです。個人的には、モンゴルが船での侵略に慣れていなかったのかな、と感じました。この後数年後、モンゴルは再度、大軍を差し向けてきますが、この時も嵐が吹き荒れて撤退していきます。でも、それもこれも、陸地で御家人たちが頑張って戦って、元を沖へ追いやったからこそ。日本を守った御家人たち。この後、鎌倉幕府を中心に結束を固めたとも伝わっています。

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