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諸葛亮と蒋介石が行ったそれぞれの「北伐」を元予備校講師がわかりやすく解説

不朽の名文「出師の表」の上奏と北伐開始

南蛮平定から戻った諸葛亮は、いよいよ、大敵である魏の討伐に取り掛かります。南方の蜀から北方の魏を討つので、北伐といいますね。諸葛亮は北伐にあたり、皇帝劉禅に「出師の表」を上奏します。

諸葛亮が「出師の表」を書いた理由は、若い皇帝劉禅を残して長期間国を留守にすることを心配したから。「出師の表」は次のような内容です。

まず、第一に三国の内、蜀は疲弊していると現状を分析。劉禅に人材を大切にするよう説きます。次に、自分が劉備から受けた恩に報いるため、魏と戦い、漢王朝を復活させるという意気込みを述べました。

最後に、諸葛亮は「自分は(劉備から)受けた恩に感激し、これに打ち勝つことはできません。今、遠く離れた場所に離れるにあたって涙を流し、言葉を言うことができません。」と述べます。諸葛亮の「出師の表」は古来、名文中の名文として高く評価されていますよ。

諸葛亮、志半ばで五丈原に死す

228年、「出師の表」を上奏した諸葛亮は、ついに北伐を開始しました。用意周到に練られた蜀軍の攻撃の前に、魏軍は敗退を重ねます。

しかし、魏軍の司令官に司馬懿が抜擢されたことで状況は大きく変わりました。司馬懿は、蜀軍の食糧輸送で街亭という場所が重要な役割を果たしていることを見抜きます。諸葛亮も司馬懿が街亭に目をつけると考え、幕僚の馬謖を派遣しました。しかし、馬謖が独断で布陣をかえたため、司馬懿軍の武将張郃に大敗。全軍撤退に追い込まれました。

その後、合計5度にわたって北伐を実行しましたが、魏の守りは固く、北伐を達成することはできません

234年、諸葛亮は北伐のさなかに五丈原で亡くなります。蜀は諸葛亮の死後、30年ほどで滅亡してしまいました。

孫文の後継者となった蒋介石による北伐

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諸葛亮の北伐からおよそ1700年後、中国では辛亥革命が発生し、清王朝が滅亡。中国各地を軍閥が支配する群雄割拠の時代となっていました。中国統一を目指す孫文は広東で国民革命軍を組織します。孫文の死後、国民革命軍を引き継いだ蒋介石は北伐を開始しました。北伐の途中、蒋介石は上海クーデタで実行し共産党勢力を排除。欧米の支援を受けたうえで、北伐を再開。各地の軍閥を従える形で北伐は一応の完成を見ます。

辛亥革命

20世紀初め、およそ300年続いた清王朝は滅亡の危機に瀕していました。日清戦争の敗北後、欧米列強が中国に進出。各地を植民地化していきます。外国の侵略に無策な満州人の清国政府に対し、漢民族の怒りは頂点に達しました。

1911年、清王朝が外国勢力から借金をして鉄道を国有化しようとしたことから反乱が発生。反乱は瞬く間に広がり、反乱軍が実権を握った省では清朝からの独立宣言がだされます(辛亥革命)。続発する反乱を束ね、中華民国臨時大総統になったのが革命家の孫文でした。

南京を中心に勢力を拡大した中華民国でしたが、北京には清王朝最強の北洋軍を率いる袁世凱が健在です。袁世凱は清王朝を見限り、孫文に取引を持ちかけました。孫文は清王朝の滅亡を優先させるため、袁世凱に中華民国大総統の地位を譲ります。袁世凱は清朝最後の皇帝である宣統帝を退位させ、清王朝を滅亡させました。

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