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諸葛亮と蒋介石が行ったそれぞれの「北伐」を元予備校講師がわかりやすく解説

第一次国共合作と孫文の死

辛亥革命後、選挙が実施され、議会が招集されました。しかし、袁世凱は自分の権力を守るため孫文らの国民党を弾圧。議会を武力で解散させました。孫文は1917年に広東軍政府を樹立。袁世凱や袁世凱の死後に北京を支配した段祺瑞らに対抗します。

1924年、孫文は段祺瑞をはじめとする軍閥を打倒するため、共産党と手を組みました(第一次国共合作)。しかし、それだけでは軍閥打倒の力としては不十分です。

孫文は革命を貫徹するには強い革命軍が必要だと考えました。そのため、広東に黄埔軍官学校を設立します。黄埔軍官学校は、軍隊の幹部を養成する学校で、蒋介石が校長をつとめました。

1925年、周辺諸勢力を平定し、本格的な北伐を進めようとしていた孫文が北京で急死します。かわって、国民党の指導者となったのが蒋介石でした。

第一次北伐の開始と上海クーデタ

1926年7月、蒋介石は孫文の遺志を継ぐとして北伐を開始しました。北伐の目的は、帝国主義や軍閥の打倒と中国統一です。蒋介石は自ら北伐軍の総司令官となり、10万の国民革命軍を率いて北上を開始しました。

蒋介石率いる北伐軍は、各地を支配する軍閥を打倒し、降伏させます。北伐軍は武漢・杭州・南京など中国南部の大都市を次々と支配下に収めました。そして、1927年には経済の中心となっていた上海を陥落させます。

1927年4月12日、上海を制圧した蒋介石は、共産党排除のクーデタを起こしました(上海クーデタ)。蒋介石が上海クーデタを起こした背景には、浙江財閥の存在があります。浙江財閥は共産党の力が増すことで、自分たちの財産や権益が奪われるのを恐れました。蒋介石は浙江財閥と手を組み、共産党を打倒します。

北伐の再開と北京制圧

上海クーデタで主導権を確立した蒋介石は、進軍を再開します。蒋介石率いる北伐軍の前に立ちふさがったのが山東省に利権を持つ日本でした。日本は、山東省などに居留する日本人を保護するためとして軍を派遣します(山東出兵)。

1928年、山東省に派遣されていた日本軍は、済南で北伐軍と武力衝突しました(済南事件)。蒋介石は、日本軍と衝突すれば北伐が不可能になるかもしれないと考え、軍を山東省から引き、日本軍を迂回する形で北京に迫ります。

このころ、北京を支配していたのは満州軍閥の張作霖でした。張作霖は北伐軍を迎撃しましたが、軍の戦意が低く敗北。1928年6月4日、蒋介石は北京を放棄します。北伐軍は6月8日に北京を占領しました。

北伐の完成

蒋介石率いる北伐軍と戦い、軍の多くを失った張作霖は本拠地の満州に戻って体勢を立て直そうとしました。しかし、満州の制圧をもくろんでいた関東軍は、力を失った張作霖を排除し、日本による満州支配を実現しようと動きます。

1928年6月4日、奉天郊外で張作霖が乗っていた列車が爆破されました。張作霖は爆破に巻き込まれて死亡(張作霖爆殺事件)。彼の軍隊は息子の張学良に引き継がれます。事件が関東軍の策謀によるものだと知った張学良は、日本との関係を見直すことを決めました。

事件の一か月後の1928年7月、張学良は蒋介石に使者を派遣。奉天軍閥が蒋介石に従うことを表明しました。1928年12月26日、張学良支配下の満州では中華民国の畑である「青天白日旗」が掲げられます。これにより、北伐の目的である中国統一が、一応達成されました。

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