幕末日本の歴史江戸時代

徳川家康はなぜ「鎖国」を実施した?実は煙硝輸入の規制のため?理由をわかりやすく解説

信長の知られざる遺志を継ぎ、秀吉が復活させた煙硝仕入れルートによる煙硝は、秀吉亡き後も大量に国内にもたらされました。家康は関ヶ原の戦いや大阪冬の陣、大阪夏の陣でなんとか消費しましたが、これ以上煙硝が大量に流入すれば他の大名の軍事力に直結しかねず、反旗に繋がりかねないと危惧した家康は鎖国への道を選んだのです。

鎖国は秀吉の煙硝ルートの復活の反動だった

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鎖国は徳川政権の中だけで考えるには無理があります。それは鎖国は徳川体制維持のために、異国の文化を排除したものではないからです。秀吉が朝鮮出兵によって煙硝の需要を拡大させ、信長死後に失われた煙硝仕入れルートが復活したことで煙硝の流入量が江戸幕府単体では管理しきれない規模に膨れ上がりました。戦国時代に一定の煙硝の需要があり、信長によってその需要は拡大しましたが、秀吉の朝鮮出兵による中国大陸規模の合戦規模の戦がないと、国内に流入した煙硝を仕入れルートの条件通り捌ききれなくなってしまったためです。鎖国の理由は煙硝にありました。

鎖国についてのおさらい

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鎖国は歴史上、江戸時代だけに見られた政策であり、家康に始まり、秀忠に受け継がれ、家光の代に完成しました。キリスト教の布教が禁止され、キリシタン大名は弾圧を受け、時には火あぶりの刑に処せられたりしたのです。元々キリスト教は戦国時代にフランシスコ・ザビエルという宣教師によってもたらされました。信長によって保護され、秀吉の時代にバテレン追放令によって禁止政策が取られるまで、日本人にとって神道や仏教に加えて新たな信仰として根付いていったのです。鎖国によってキリスト教は禁止され、諸外国との交易は無くなりましたが、全ての外国と交易が禁じられたわけではありませんでした。中国や朝鮮はもとより、西洋においては元々ポルトガルとの交易の場であった長崎の出島においてオランダとのみ交易が続けられていました。

朝鮮出兵後の煙硝の消費問題

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煙硝の国際ルートは一度確約するとそう簡単に縮小できるものではありません。何故なら煙硝は南米などはるか遠方で採掘され、煙硝を運ぶ船、作業員、そしてそれらを手配する仲介業者などの利権など諸々の大きなインフラの元で築き上げられているのです。現在と違い、電話やFAX、メールなど遠方との通信手段がない時代、発注量の大掛かりな変更はそう簡単にできるものではありません。そのため、日本側の一方的な都合で取引を大幅に制限したい場合には、トラブル覚悟で一方的に断るしかなくなってくるのです。

秀吉亡き後、秀頼が天下人の後継者として大坂城内にいる間、五大老五奉行制度もあり、家康単独で貿易関係を調整することはできませんでした。そのうち煙硝の決済に金銀だけでは足りず、人身売買も加わってくるようになってきたため、一刻も早く政権を奪取する必要が出てきたのです。

3つの合戦による煙硝の消費

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徳川家康が天下人になるまでに、3つの戦が起きています。関ヶ原の合戦、大阪冬の陣、大阪夏の陣です。3つの戦の中で、大量に流入した煙硝を可能な限り消費することが行われました。関ヶ原の合戦は豊臣政権から多くの家臣団を徳川方につけるために家康にとっては必要な合戦でもありましたが、同時に煙硝仕入れルート復活後に国内に流入して蓄積された莫大な量の煙硝を大量に消費する唯一の機会でした。関ヶ原の合戦後に徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた後は、これから国土のインフラを築き上げなければならない時期でもあり、戦を繰り広げるわけにはいきません。従って煙硝を消費する機会が限りなく少なくなったのです。

そこで家康は大阪冬の陣を起こしました。本当に豊臣家を滅ぼしたいのであれば、軍事力に任せて攻めることなどせずに、朝廷へ働きかけて豊臣秀頼に対して討伐する勅命を出してもらうなど、他の方法が幾らでもあったはずなのです。なぜ大坂城を取り囲み、大砲を連日撃ち続けることをしたかといいますと、国内に蓄積された煙硝を一気に消費するためでした。

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