乙巳の変
645年、朝鮮半島から貢物を持った使者が日本にやってきました。儀式には大臣である蘇我入鹿は必ず出席しなければなりません。しかも、儀式のため、入鹿の護衛兵は宮殿の中に入ることができませんでした。
これを千載一軍の好機と考えた中大兄皇子と中臣鎌足は入鹿暗殺の機会を狙います。入鹿は、暗殺に備えるため、常に剣をもっていました。しかし、宮殿に入る前、道化師が入鹿の剣を恭しく預かってしまったため、彼は丸腰で宮殿に入ります。
儀式が始まり、式典が滞りなく進みました。本来なら、儀式の最中に蘇我入鹿を殺害するはずでしたが、実行役が怖気づいてしまい、なかなか、入鹿に切りかかることができません。このままでは失敗すると考えた中大兄皇子は、自ら剣を握り入鹿に切りつけ、殺害してしまいました。この事件を乙巳の変といいます。
皇極天皇の退位と孝徳天皇の即位
乙巳の変の後、皇極天皇は天皇の位を軽皇子(かるのみこ)に譲りました(孝徳天皇)。中大兄皇子は皇太子となり、政治の実権を握ります。孝徳天皇は都を難波宮に移し、新しい政治を始めました。乙巳の変に始まる一連の政治改革を大化の改新といいますね。
まず、中国にならい「大化」の元号を用いました。仏教については、引き続き尊重する姿勢を示します。国博士には元遣隋使の僧旻や高向玄理が任じられ、中大兄皇子の同志ともいえる中臣鎌足は内臣に任じられました。
大化の改新の目標は、天皇中心の中央集権国家をつくること。そのために、改新の詔を出して政治の目標を定めました。もっとも、最近の研究では改新の詔は、後世の人が書き加えた可能性があると指摘されています。とはいえ、孝徳天皇と中大兄皇子が中央集権を目指していたことは確かでしょう。
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大化の改新後の天皇たち
大化の改新後、孝徳天皇と中大兄皇子の協調関係は崩れてしまいました。中大兄皇子は重心を引き連れ、飛鳥に帰ってしまいます。孝徳天皇の死後、皇極天皇が再び即位。斉明天皇となります。斉明天皇の時代も、中大兄皇子が政治の中心にいました。斉明天皇の死後、中大兄皇子は即位し、天智天皇となります。中央集権化を推し進めた天智天皇の死後、国内を二分する壬申の乱がおきました。欄に勝利した天智天皇の弟である大海人皇子は天武天皇として即位。妻とともに、新国家建設を目指します。
皇極天皇が再び即位し斉明天皇となる
653年、中大兄皇子は孝徳天皇に対し、都を倭京(飛鳥地方の都)に戻すべきだと進言しました。しかし、孝徳天皇は難波宮から動こうとしません。中大兄皇子は自分の母親(皇極天皇)や弟(大海人皇子)らを引き連れ、勝手に飛鳥に帰ってしまいました。
臣下の大半が実力者である中大兄皇子にしたがって難波宮を離れたため、気落ちした孝徳天皇は654年に亡くなりました。
孝徳天皇の死後、天皇となったのはかつての皇極天皇でした。二度目の即位(重祚)となったので、斉明天皇という別の名前で呼ばれます。
斉明天皇の時代、大土木工事や東北地方の日本海側に対する軍事遠征が行われました。さらに、朝鮮半島で唐や新羅に滅ぼされた百済を助けるため、援軍を派遣します。斉明天皇は派兵前に亡くなりますが、中大兄皇子は派兵を続行しました。
ところが、朝鮮半島に派遣した軍団は、唐・新羅連合軍の前に敗退します(白村江の戦い)。中大兄皇子は瀬戸内海を中心に、西日本各地に城を築いて唐や新羅が攻め込んできても叩けるように準備をしました。
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中央集権化を推し進めた天智天皇
斉明天皇の死後、しばらくは皇太子のままで政治を行っていた中大兄皇子は、667年に正式に即位し、天智天皇となりました。天智天皇は、都を近江大津宮に移します。水運の重要地である大津に都を移すと同時に、唐・新羅連合軍が攻めてきても長期間戦えるよう、都を内陸に移したのかもしれません。
天智天皇は皇太子時代から進めていた中央集権化を積極的に推し進めます。史料が残っていないので確実なことは言えませんが、近江令を制定したともいわれますね。
また、日本最初の戸籍である庚午年籍を作らせ、朝廷が人民を支配する仕組みを整えようとしました。庚午年籍は、のちの公地公民制の土台となります。
671年、重態となった天智天皇は弟の大海人皇子を呼び寄せ、天皇に即位するよう頼みました。しかし、大海人皇子は天智天皇の本心では、子の大友皇子を天皇にしたいと思っていることを見抜き、即位を辞退。大海人皇子は出家して奈良県の吉野に去ります。