日本の歴史

【5分で解説】封建制とは?ヨーロッパで何があった?なぜ崩壊した?封建社会をわかりやすく解説!

2-2. 鎌倉~室町~江戸まで続いた日本の封建制度

やがて時代が変わり、源頼朝が台頭して鎌倉幕府を開くと、幕府による土地の管理の仕方に変化が生じます。鎌倉幕府では、源頼朝(将軍)と御家人たちが主従関係を築き、「御恩と奉公」スタイルが確立。武士は頼朝の下で団結します。

その直後、1274年と1281年にモンゴル軍が襲来。世にいう「元寇」です。陸上ではなく、海の向こうから襲ってくる未知の敵。これに対抗すべく、幕府は各地の御家人に檄を飛ばし、厳戒態勢を取ります。御家人たちは鎌倉幕府の命に従って戦場へ(奉公)。幕府は功績を挙げた御家人に対して領地を与えて(御恩)労い、領地を与えられた御家人はその地域を治める……鎌倉時代、そんな関係が確立していきました。

この関係性は、鎌倉幕府崩壊後も、室町幕府、江戸幕府へと受け継がれていきます。幕府から領地を封じた武士たちは地方で力をつけ、大名と名乗るようになり、日本中に藩(国)が成立。この制度は幕末・明治維新まで続きます。

2-3. 日本の封建制はいつ頃、なぜ終わったのか?

土地(領地)を媒介とした主君(幕府・将軍)と従者(武士)の関係。これが日本の封建制度の基本形です。では、日本のの封建制はいつ頃まで続いたのでしょうか。

徳川幕府が終わり、明治時代に入ると、明治新政府は「版籍奉還(はんせきほうかん)」を行います。それまで藩主たちが所有していた土地や領民を朝廷(天皇)に返還させたのです。その後、廃藩置県(はいはんちけん)が行われ、藩は消滅。代わりに「府」や「県」という新しい体制が整います。これによって、幕府と武士との間の主従関係も終止符。日本の封建制の歴史はここまでとなります。

鎌倉時代からおよそ700年続いた日本の封建制。日本の近代化を目指す明治政府によって、その長い歴史に終止符を打ったのです。

3. 日本とは違う?ヨーロッパの封建制度とは

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日本の封建制度では、鎌倉幕府以降、武士は幕府という唯一無二の主君に仕え主従関係を築いてきました。その絆は血縁の有無に限らず、非常に強いもの。主君のために日々知恵を絞り、命を投げ出すこともいとわない、そんな関係性が日本の封建制度の基礎となったのです。では今度は、海外に目を向け、西欧の封建制度についてご紹介しましょう。日本の封建制度と違いがあるのか、詳しく解説します。

3-1. ドライで合理的・中世ヨーロッパの封建制度

ヨーロッパの封建制度は「フューダリズム(Feudalism)」と呼ばれ、古代中国や日本の封建制度とは異なる性質を持っています。中国の「血縁による主従関係」や日本の「御恩と奉公」とも異なる、一種の「主従契約」のようなものがベースとなっているのです。

ヨーロッパの封建制度の歴史は、5世紀頃までさかのぼります。ローマ帝国崩壊や異民族の侵攻、ゲルマン民族の大移動などによって、ヨーロッパ大陸は常に大きく揺れ動いていました。

もう、ローマ帝国のような強大な力を持って守ってくれる国家はありません。異民族が入り込んできて暴れまわったり、争いや略奪が絶えない時代、貴族や権力者たちは自分の領地を守るため、力の強い者たちと主従関係を結ぼうと考えます。契約時には様々な約束事が文書で取り交わされ、時には複数の主君と契約を結ぶこともあったとか。これがヨーロッパの封建制度の始まりです。

3-2. ヨーロッパの封建制はいつ頃まで続いた?

力の強い者たちは、そうした権力者たちと主従関係契約を交わし、領地を授かります。そして命がけで外敵から領地を守り、主君を守り、その土地に住む農民たちに耕作をさせて税収を得る……。こうした農民付きの土地を「荘園」と呼ぶこともあります。このような土地を介した封建的関係は、代限りではなく子や孫の代まで世襲されることも多かったようです。

農民が耕作し農作物が採れる土地こそ、最も価値のあるものだった時代。しかし時が流れ、12~13世紀頃になると貨幣経済というものが発達していきます。貨幣の浸透は、結果的にヨーロッパの封建制に大きな変化をもたらしました。例えば、お金持ちの農民が誕生して領主との立場が逆転、領主たちによる農民(労働力)の奪い合い、といったことも起きていたようです。

また、14世紀頃にヨーロッパ全土に蔓延したペストによる人口減少も、農民たちを解き放つ原因となりました。国によって時期や事情はことなりますが、17世紀に入ると各地で市民革命が起きるようになり、封建制も崩壊していったと見られています。

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