日本の歴史昭和

戦後最大級の疑獄事件「ロッキード事件」をわかりやすく解説

ロッキード事件の発覚

1976年2月4日、アメリカ上院の外交委員会多国籍企業小委員会(通称、チャーチ委員会)で、公聴会が開かれました。公聴会に呼び出されたのはロッキード社の副社長。公聴会で配られた資料の中に、なんと、ロッキード社が日本に対して30億円以上のお金を渡したことが記されていました。

上院の公聴会で、ロッキード社の副会長のコーチャンと元東京駐在事務所代表のクラッターは、日本での工作を請け負っていた児玉譽士夫に700万ドルの工作資金を渡したことを証言します。

児玉は受け取った工作資金を使い、小佐野賢治や商社の丸紅などを通じて、時の首相田中角栄に5億円が渡るようにしたとの疑いをかけられました。時の首相が賄賂を受け取ったとされ、「総理の犯罪」としてマスコミは取り上げます。

ロッキード隠しと三木おろし

三木首相は、厳しい世論などをふまえ、ロッキード事件の捜査開始を検察に指示しました。また、三木はフォード大統領に対し捜査協力を要請するなど、ロッキード事件解明に前向きな姿勢を見せます。アメリカは三木の要請にこたえ、資料を日本の検察に渡すことに同意しました。

三木の動きに対し、田中派の議員たちは「国策捜査」だとして激しく批判。反三木派も、三木の動きを「はしゃぎすぎ」だとしてけん制しました。もともと、三木は自民党内でも少数派閥の出身のため、三木を擁護する声は自民党内で大きくありません。

三木がロッキード事件に前のめりになっていると見た自民党の主流派は、三木を退陣させる「三木おろし」を画策します。この動きに対し、国民やマスコミは「ロッキード隠し」だとして強く批判しました。

党内の統制が困難になった三木は内閣改造で党内融和を図りますが失敗。1976年12月の総選挙で、自民党が議席を減らす敗北を喫したことで三木は総辞職。福田赳夫が次の首相になりました。

事件のキーパーソンとなった児玉誉士夫と小佐野賢治

コーチャン副会長の証言で名前が出た児玉誉士夫小佐野賢治とは、どのような人物だったのでしょうか。

児玉誉士夫は、日本の右翼活動家で戦争中の物資調達などで莫大な利益を上げた人物でした。豊富な資金を得た児玉は右翼勢力の結集や鳩山一郎への資金援助などを行い、「政財界の黒幕」と噂されます。

1958年の段階で、児玉はロッキード社の秘密代理人となっていました。児玉が田中ら接触するため頼ったのが小佐野賢治です。

小佐野賢治は国際興業グループの創業者で、田中角栄と深いつながりを持つ人物でした。小佐野は日本航空や全日空の大株主であり、両者の経営に影響力を持ちます。小佐野を通じた田中への工作が実を結び、全日空はトライスター21機の導入を決定しました。

あいつぐ関係者の死

ロッキード事件の捜査が進み、様々な事実がわかってきたころ、ロッキード事件の関係者たちが相次いで不審な死を遂げました。

1976年2月14日、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞社の記者、高松康雄が亡くなります。死因はくも膜下出血とされました。

同年6月9日、児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が死去します。福田は戦後直後から児玉と行動を共にしてきた人物。検察は事件の核心を知る人物として逮捕しようとしましたが、直前に肝臓病が悪化。入院中の福田に検察が尋問しますが、大きな成果は得られませんでした。その後、福田は亡くなります。

また、同年8月2日には田中元首相の運転手である笠原正則が亡くなりました。笠原は車に排ガスを引き込んで自殺します。

事件の真相を知る可能性がった関係者の死は、ロッキード事件の捜査を困難なものとしました

ロッキード事件関係者の逮捕・起訴

1976年の2月にロッキード事件が明らかになって以後、検察は急ピッチで捜査を進めました。3月、検察は児玉誉士夫を所得税脱税で在宅起訴します。5月には児玉を外為法違反で追起訴しました。

6月、東京地検特捜部は商社丸紅の前専務大久保利春を偽証罪で逮捕。全日空の澤雄次専務を逮捕します。これらの逮捕を皮切りとし、6月から7月にかけて、東京地検特捜部は丸紅や全日空の幹部を次々と逮捕しました。

7月27日、東京地検特捜部はついに田中角栄前首相と元首相秘書の榎本敏夫を外為法違反の容疑で逮捕しました。田中は、逮捕されたその日に自民党を離党します。8月17日、保釈金2億円を支払って田中は保釈されました。

8月、衆議院議員で元運輸政務次官の佐藤孝行と元運輸大臣の橋本登美三郎が逮捕されました。そのほかにも関与が疑われる政治家がいましたが、時効などで逮捕されません。疑いがかかった高官たちは灰色高官といわれました。

ロッキード事件の裁判と「ハチの一刺し」

1977年、ロッキード事件の本格的な裁判が始まりました。裁判は丸紅ルート全日空ルート児玉ルートに分かれて審理が進みます。裁判で田中前首相と元秘書の榎本敏夫は5億円は受け取っていないと起訴事実を否認しました。

1981年10月28日、東京地方裁判所で行われた丸紅ルートの裁判で、榎本三恵子が検察側の商人として出廷しました。榎本三恵子は田中の元秘書榎本敏夫の妻です。ロッキード事件発覚後、榎本と離婚していました。

法廷に出廷した榎本三恵子は、夫の榎本敏夫が丸紅から5億円を受け取っていたと証言します。これまで、金銭は受け取っていないとしていた田中と榎本は決定的に不利な立場になりました。さらに、証拠書類を庭で焼くなど生々しい証言も行い、法廷を騒然とさせます。

証言後、マスコミの取材に応じた榎本美恵子は「蜂は一度刺したら死ぬと言うが、私も同じ気持ちです」と証言に対する覚悟を語りました。この発言は「ハチの一刺し」という流行語となります。

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