ペリーがやってきた
ウィルヘルム・ハイネ – http://ids.si.edu/ids/deliveryService?id=NPG-8200262B_1, パブリック・ドメイン, リンクによる
嘉永6年(1853)アメリカの東インド艦隊司令長官「マシュー・ペリー」が4隻の黒船(蒸気軍艦)を率いて、三浦半島浦賀沖に現れます。みなさんご存知の「ペリー来航」「黒船来航」というものですね。友好通商・石炭と食糧の供給・難破民の保護を目的とした米国大統領「フィルモア」の国書を持っていました。しかし幕府は12代将軍将軍「徳川家慶」が亡くなったことから帰ってもらいますが、約束より早い嘉永7年(1854)に7隻の「黒船」を率いて再び来航したのですね。
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混乱する江戸幕府
「開国を断ったら武力行使」すると言ったペリーの言葉はすでに琉球王国でなされていることもあり、「下田(現・静岡県)」「箱館(現・函館)」開港などを盛り込んだ「日米和親条約」を締結してしまいました。その後大老の「井伊直弼」との交渉によって「長崎」「新潟」「兵庫」他の開港や外国人居留地などが盛り込まれた「日米修好通商条約」が締結してしまい、200年以上続いた「鎖国」は終わったのです。
終わったものの異国嫌いの「孝明天皇」の許可が得ていなかったため「開国派」と「攘夷派」と国が別れてしまいますよ。攘夷派によって安政7年(1860)井伊直弼は「桜田門外の変」で暗殺され、薩摩藩は最高権力者「島津久光」の行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬捨てたことから「薩英戦争」を起こし、長州藩は下関を通る外国船を砲撃したためイギリス・フランス・オランダ・アメリカから報復される「下関戦争」を起こすことになってしまったのですよ。これで薩摩と長州は攘夷をあきらめて倒幕への方向転回をはじめたのですね。
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鎖国はよかったのか?悪かったのか?
キリスト教弾圧からはじまった鎖国。そのために外国からの植民地にされなかった・独自の文化が発展したという「よかった」という意見と、外国の文化や技術や民主主義から取り残された「悪かった」というふたつの意見に分かれていますね。あなたはどちらの意見でしょうか?なかなか難しい命題ですよね。