日本の歴史江戸時代

200年続いた「鎖国」その真実とは?わかりやすく解説

徳川秀忠から厳しくなっていく

「徳川秀忠」の時代になると、対外政策としては、元和2年(1616)に中国(明)と朝鮮以外の国は平戸・長崎以外に入港することが禁止。そしてキリスト教弾圧は熾烈になっていきます。隠れている宣教師を密告したらご褒美がもらえると、庶民はやっきになって探し出しますよ。そして捕まった宣教師達は処刑されていくのです。

元和6年(1620)「平山常陳事件」が起きました。平山常陳が船長の朱印船が、キリスト教宣教師を乗せて日本に向っていたところをイギリスとオランダの船に拿捕されたことから、キリスト教への不信感は決定的となり、宣教師だけに限らず信者にも広げられ「元和の大殉教」と呼ばれるものとなっていき、京都や長崎で宣教師だけでなく信者や家族まで処刑していきますよ。

徳川家光で終結したキリスト教弾圧

この頃から有名な「踏み絵」が始まりますよ。キリストやマリアの絵を踏ませてキリシタンかどうかを判別させるものです。最初は紙製だったそうですが、大勢に踏ませて破れてしまうので、木製や金属製のものを踏ませたのですね。これが、なんと明治までやっていたそうですよ。ビックリですね。これでキリシタンだとわかると処罰されるので、キリスト教を捨てたり、踏んだものの信仰を捨てずに「隠れキリシタン」となったものもいるみたいですね。マリア像はマリア観音として観音様の姿にしていたようですよ。

幕府の鎖国への最後の引き金を引いたのは、寛永14年(1637)10月25日に勃発した「島原の乱」です。弾圧に苦しむキリシタンと、搾取に苦しんだ農民達が合同して起こした一揆ですね。近頃はやはり宗教的な反乱だといわれているみたいですよ。これがきっかけで、すべての住人は寺の檀家になるという「檀家制度」というものができて、寺院が戸籍係のような形になっていったのでした。

そして鎖国へ

元和9年(1623)イギリスは経営不振から長崎から撤退。貿易はポルトガル・スペインが中心になっていきます。幕府はポルトガルに「貿易はするが、布教に関しては手を貸さないこと」を改めて約束させますよ。しかしスペインは1584年に「天正遣欧使節団」1615年に「支倉常長」が国王に謁見ということをしていた上に、宣教師たちを大勢送り込んでいたことから国交断絶を幕府から通達されるんですね。

朱印船もキリスト教の隠れ蓑になっていることが多いうえに、アユタヤでの「山田長政」を中心とした日本人町が襲撃されたこともあり、寛永8年(1631)に老中からの許可書である奉書を持たないと貿易ができない「奉書船制度」を開始します。奉書船以外の海外への渡航を禁止したものの、その4年後には奉書船自体も廃止されて、海外への渡航を完全禁止、海外に住む日本人の帰国も禁止となってしまったのですよ。

寛永16年(1639)、とうとう幕府はポルトガル船の入港を禁止して、そのかわりにポルトガルがやっていた海外からの必需品(生糸や革製品など)を、オランダのみに許可して幕末まで唯一交易をすることになったのでした。

鎖国法って法律は本当にあったの?

鎖国・鎖国といいますが、実は「鎖国令」というものは存在しなかったといいます。ドイツ人医師の「エンゲルベルト・ケンペル」がアジア諸国のことを解説した『廻国奇観』に日本のことを書いて、死後『日本誌』と日本の部分だけ編集されて英訳されました。その中の『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』という論文を、寛政12年(1800)に長崎の元通詞の「志筑忠雄」がオランダ語版を訳したんですね。それであまりに題名が長いことから本文中の単語から『鎖国論』と名前をつけたといいます。寛永12年といったら、11代将軍「徳川家斉」の時代で、ナポレオンがエジプト遠征して、伊能忠敬が地図を書いていた時代ですよ。えらく時間がたってますよね。幕府ではじめて「鎖国」という言葉が使われたのは「ペリー来航」の時だったそうです。

鎖国といったら日本だけの専売特許のような気がしますが、実は中国も清の時代に「下海通蕃の禁(海禁)」という法律を作っています。内容は「領民の海上利用を規制」するもので、「海賊禁圧」「密貿易防止」「海外貿易等の外洋航海」「沿岸漁業」「沿岸貿易(国内海運)」というものが禁止されたり規制されていたのですね。他の東北アジアの国も似たような法律を作っているみたいですよ。

実はオランダの陰謀だった?

Nagasaki bay siebold.jpg
Philipp Franz von Siebold – http://www.pauch.com/kss/g007.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

ここで「なんでオランダだけが許可された?」という素朴な疑問が出てきますよね。そこで出てきたのが「実は鎖国自体もオランダの陰謀」という話ですよ。なにをやったんですかね。ポルトガルというアジアを仕切っていた大国を追い抜くってなかなかなことではないですよね。

オランダがしたこと

まずポルトガルとスペインはなにをしていたのか?ということですよね。それは宣教師を送り込み、布教によって洗脳をすすめて、そこへ大軍を送り込んで植民地にすることですよ。それによってアジアだけでなく、ヨーロッパなどもしていってるんですね。

オランダがポルトガルと違うのは「布教する気は全くなく、利益さえ上げればOK」というわかりやすいものでした。オランダはアジア貿易については後手をとっていて、ある意味すきいる隙間がなかったのですね。そこでポルトガル・スペイン、そして日本を排除しようとしたのですよ。

スペインはポルトガルと仲が良い(王国同士の婚姻があった)ことから、植民地の方法も含めて「あいつらは危険だ」と主張していくのですね。実は幕府は、キリスト教を布教しなければオランダ以外の交易をするつもりがあったという話が残っていますが、それをことごとく潰したのがオランダだという話なんですよ。

幕府が求めるポルトガルが独占していた品々は全てオランダが引き受けると主張島原の乱の時は武器弾薬をすべてオランダが用立てるという周到なことをしているんですね。ポルトガル人を追放してから長崎は非常に寂れていったことから、寛永18年(1641)オランダ商館を平戸から出島に移すことになりました。

出島でのオランダ

オランダは特別に長崎以外のどこの港でも停泊できるという許可をもらっていたのですが、武装したオランダ船「ブレスケンス号」が盛岡藩で拿捕されたことが起き(外国人を見たら捕まえろという命令があったため)オランダだとわかって釈放されたものの、またなにが起きるかという懸念から、出島に押し込めという形となってしまったのですね。

しかし、交易としては独占していたわけですから、オランダ東インド会社は万々歳なわけですよね。しかしナポレオンによってオランダという国がなくなった時には、世界で唯一出島が「オランダ国」だったのが出島だったという皮肉なこともおきていますよ。海外の情報はオランダからもたらされて「フランス革命」も幕府は知っていたといいます。

徳川8代将軍である「徳川吉宗」の時代には、外国の知識を取り入れていこうということになり、漢訳蘭書の輸入禁止を緩和することとなり、元文5年(1740)儒学者の「青木昆陽」を長崎留学させて飢饉の時のためのサツマイモ栽培を奨励したりして、オランダ語学習も緩和されていきましたよ。

そのために「長崎留学」は知識人の中ではステータスとなり、安永3年(1774)には「杉田玄白」「前野良沢」たちがオランダの医学書の『ターヘル・アナトミア』を訳して『解体新書』を著したり、「平賀源内」「温度計」「エレキテル」「洋画」などの技術を取り入れて、医師のシーボルトが開いた「鳴滝塾」には全国から有能な医師達が集まりましたよ。

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紫蘭