幕末日本の歴史江戸時代

四賢侯の一人として活躍した宇和島藩主「伊達宗城」を元予備校講師がわかりやすく解説

公儀政体の実現に奔走

桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、宗城は謹慎を解かれ自由に活動できるようになりました。宗城は島津斉彬の弟で斉彬の死後、薩摩藩の最高指導者となっていた島津久光と連携し公儀政体の実現に向けて奔走します。

公儀政体論は、諸外国による通商要求など未曽有の国難を乗り切るために、幕府だけではなく親藩や雄藩の藩主も政権に加えて挙国一致の政治を行うべきだとする考え方のこと。宗城をはじめとする「四賢侯」は公儀政体樹立を目指します。

1864年、薩摩藩の上表(朝廷への提案)にもとづき、徳川慶喜、松平慶永、山内豊信、松平容保、島津久光らとともに伊達宗城が参預会議の構成員となりました。

しかし、参預会議は長州征討や横浜鎖港問題で一橋慶喜と島津久光の対立が激化したため行き詰まってしまいます。特に、泥酔した慶喜が島津久光や松平慶永、伊達宗城を「天下の大愚物・大奸物」と批判したことから、参預会議は崩壊しました。

外交で活躍した明治維新後の伊達宗城

参預会議の崩壊後、薩摩藩は幕府を見限り長州藩とともに討幕へと動きます。1868年、戊辰戦争がはじまると伊達宗城は就任していた新政府参謀を辞任。事実上の中立を保ちます。

明治維新後、宗城は新政府の民部卿兼大蔵卿となりました。民部省は明治初期に置かれていた役所で、国内行政を管轄した官庁です。宗城はイギリスから鉄道敷設のための借款を取り付けることに成功しました。

借款を行った理由は明治政府が財政難だったから。発足直後の明治政府は財政難のため、諸外国から資金を調達しなければ大規模な事業を行えなかったためです。

1871年、宗城は欽差全権大臣として清国の代表である李鴻章と外交交渉を行いました。その結果、清国との間で対等な日清修好条規を結びます。その後、宗城は外国要人の接待などでも活躍しました。

大陸浪人として活動し、最後は処刑された伊達宗城の孫

伊達宗城の子孫の中には、中国大陸で馬賊となった伊達順之助がいます。順之助の父は宗城の次男で、仙台藩に養子に行った伊達宗敦でした。宗敦は戊辰戦争の敗戦後、仙台藩の当主候補から外れ別家を興します(伊達男爵家)。

順之助は宗敦と後妻の萬喜子の子として生まれました。華族でありながら、若いころから素行が悪くいくつもの学校を転々とします。

1909年、順之助は東京で不良学生同士のトラブルで、相手を射殺する事件を起こしました。裁判では探偵の岩井三郎が行った相手方の素行調査などが有利に働き、正当防衛が認められます。

1916年、順之助は中国大陸に渡り満蒙独立活動や山東自治軍などに参加しました。順之助のように中国大陸で政治活動を行った日本人のことを大陸浪人といいます。順之助は日本が戦争に敗北する1945年まで中国に滞在。終戦後に拘束され死刑とされました。

日本初の外国元首訪問で接待役となった伊達宗城

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1881年、ハワイ王国の国王カラカウアは、移民問題の解決や諸外国との修好を目的として、世界各地を歴訪しました。カラカウア王の歴訪先の一つが日本です。接待役を任されたのは伊達宗城でした。カラカウア王は宗城の接待に対する返礼として、宗城に勲章を授与します。その勲章は現在でも宇和島で保存されていますよ。外交通である宗城を象徴する勲章ではないでしょうか。

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