幕末日本の歴史江戸時代

四賢侯の一人として活躍した宇和島藩主「伊達宗城」を元予備校講師がわかりやすく解説

将軍継嗣問題への関与と安政の大獄

ペリーと日米和親条約を結んだ後、アメリカ公使となったハリスは、幕府に対し通商条約締結を働きかけます。幕府は朝廷の賛同を得たうえで通商条約を結ぼうとしますが、孝明天皇の反対によりうまくいきませんでした。

その間、13代将軍家定の健康状態が悪化。次の将軍をめぐる意見対立が起きます。この問題を将軍継嗣問題といいました。

「四賢侯」や前水戸藩主の徳川斉昭は、通商条約締結交渉などの難局を乗り切るには強力なリーダーシップが不可欠だとして、聡明だと評判の一橋慶喜を14代将軍に推します(一橋派)。

一方、彦根藩主井伊直弼を筆頭とする譜代大名たちは、将軍家と血筋が近い紀伊藩主徳川慶福を推しました(南紀派)。

両者の対立は井伊直弼の大老就任により、南紀派の勝利で決着します。井伊直弼は日米修好通商条約に調印し、反対した一橋派を徹底的に粛清する安政の大獄を行いました。安政の大獄後、宗城は藩主の座を宗徳に譲り隠居します。

政界復帰後の伊達宗城と中国で有名を馳せた伊達宗城の孫

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桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、安政の大獄で失脚した一橋派が徐々に政界に復帰。伊達宗城も参預会議などで中央政局に関与します。明治維新後、宗城は外交の場で活躍しました。宗城の孫にあたる伊達順之介は中国大陸に渡り馬賊として活動。終戦後に戦犯として連行され処刑されました。

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