幕末日本の歴史江戸時代

四賢侯の一人として活躍した宇和島藩主「伊達宗城」を元予備校講師がわかりやすく解説

欧米列強のアジア進出と幕政への関与

1840年のアヘン戦争では清国が敗北。イギリスと南京条約を結び香港を割譲しました。1844年には、オランダが幕府に対し開国を勧告。2年後の1846年にアメリカのビットルが浦賀に来航し開国を求めました。幕府はいずれも拒否します。

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリー蒸気船を含む4隻の艦隊を率いて浦賀に来航。幕府に開国を要求しました。老中首座の阿部正弘はペリーの来航を朝廷に報告。翌月には、諸大名や幕臣にペリーにどう対処すべきかの意見を求めます。

伊達宗城はペリーが提出したフィルモア大統領の国書に返書を出すことに反対。長崎での交渉と、ペリーが拒否するなら国力をあげて防御すべきと主張します。

宗城は福井藩主松平慶永(春嶽)や土佐藩主山内豊信(容堂)、薩摩藩主島津斉彬らと交流しつつ、幕府に積極的に意見を言うようになりました。宗城を含め、松平慶永、山内豊信、島津斉彬らは「四賢侯」とよばれます。

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