幕末日本の歴史江戸時代

新選組八番隊組長「藤堂平助」魁先生と呼ばれた若き志士の人生を解説

3-2新選組結成メンバーとなる

壬生浪士組になった人物は、芹沢鴨組6名(新見錦、平間重助、野口健司、平山五郎、佐伯又三郎)、近藤勇組9名(土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬介、永倉新八、原田佐之助、藤堂平助、斉藤一)の計15名。残留組に合流したいというものもおり、総勢24名になりました。彼らは、会津藩預かりとなります。20歳の平助は、壬生浪士組の道を選んだことで、4年後に起る悲劇へと流されていくのです

もうご存知でしょうが、平助は新選組の初期メンバーです。1つ年上と思われる沖田総司が新選組一時編成で最少年の隊長になり、平助は最年少の副長助勤(副長補佐)に選ばれました。この大抜擢は平助の才能を見抜いていた、山南敬介が行ったようです。後に平助は、斉藤一と共に歳少年の新選組幹部となりました。第八組隊長となった平助は、沖田総司、永倉新八、斉藤一と共に、「新選組四天王」と称されています

3-3スター続出?池田屋事件

元治元(1864)年6月5日に、京を震撼させた「池田屋事件」が勃発します。これは京で警察のような働きをしていた新選組VS尊王攘夷派の長州土佐の戦いです。まず、近藤勇は池田屋の表口と裏口を固めました。そして内部に颯爽と突入したのが、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人です。魁先生と呼ばれた、平助が一番に突入したといわれています。

中庭付近で意気盛んに過激浪士たちを切り殺していた平助が負傷。平助が流れる汗を拭くため、鉢金(鉄板が入った鉢巻)を外したとき、物陰に隠れていた敵に左の小鬢を切られたのです。若気の至り、色男も台無しに!この怪我で一時昏睡状態になりました。戦闘中に負傷し永倉に助けられたとの説があります。愛刀の刃はボロボロで、鍔元(つばもと)にもひびが入り、使い物にならなくなったとか。刀の状態から、決着がつく寸前まで戦っていたのではないでしょうか。

新選組が勝ったことで会津藩から貰った平助の報奨金は金20両で、近藤や土方の次に高額だったとか。御所を放火し天皇を誘拐しようと企んだ長州藩が、京から追い出されます。長州藩の隠れ家だった池田屋の女将や使用人まで殺したのは、暗がりとはいえやりすぎ!しかも、命拾いした主人も、後日獄死しており宿も営業停止になりました。

ちょっと雑学

2024年に新一万円札の肖像となる渋沢栄一も、4歳年上の平助が去った後に玄武館へ入門しており、北辰一刀流を学んでいます。渋沢と揉め事を起こした新選組隊士が、平助ではないかという説があるんです。

渋沢が幕臣で陸軍奉行調役組頭だったとき、見廻り組の大沢源次郎が薩摩と内通したとして捕縛することになりました。身の危険があると、新選組が護衛を頼まれたのです。土方歳三と隊を代表する強豪剣客の4人が選ばれており、その中に知勇共に秀でていた「藤堂平助」もいたと推測されています。捕縛の方法で意見が食い違い、口論となってしまいました。

土方といい合う最中、渋沢を相手に”自分たちの言い分を堂々と述べた、左の小鬢に刀傷がある男”がおり、彼にも腹が立ったと渋沢は記憶しているようです。饒舌に堂々と弁論をすることができ、左の小鬢に刀傷あるといえば、新選組隊士の中で藤堂平助しかいないでしょう。

4.池田屋事件後の平助

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By 虹村千鳥Own work, CC BY-SA 4.0, Link

進んだ文化を持つ外国との差による危機感から新たな国作りを目指す坂本龍馬らと違い、平助ら幕府を補佐する「佐幕派」の志士は、鍛錬を積み武士道の真髄を極めることに熱意を持つものが多かったとか。でも、平助らは、近藤や土方など殺し屋集団に変貌してゆく新選組にいつしか不信感を抱くようになります。

4-1新選組を脱退する平助

池田屋事件の傷が癒えた平助は、事件をきっかけに激昂した長州藩が元治元(1864)年7月19日に挙兵し、武力衝突となった「禁門の変」に参加したようです。新選組隊士の募集を命じられ江戸へ下り、運命に導かれるかのように伊東甲子太郎とその一派を勧誘しました。伊東は近藤と先に京に上り、平助は暫く江戸に留まります。伊東の新選組入隊には裏があり、隊士を勤王討幕派に洗脳し、新選組を乗っ取ろうと企んだのです。しかも、知勇兼備だった伊東は、新選組参謀並びに文学師範に就任しています。

新選組創立メンバーであり、北辰一刀流一門の平助は、近藤と伊東の板挟みとなるのです。勤王への思いが強かった伊東は、慶応3(1867)年に新選組から離脱します。伊東から必要に勧誘された平助も、近藤と決別し彼に就いたのです。いつまでも、将軍の尻を追っかけ、人殺し隊と陰口を叩かれる新選組より、理路騒然と勤王という討幕の道を説く伊東の考えに新鮮さを感じ共感したと思われます。

平助が江戸に下っているときに、尊敬していた仙台藩出身の浪人「山南敬助」が、新選組を脱走するという法度に触れました。生え抜きの幹部だった山南でさえ「切腹」させられたことにも嫌気がさしたと思われます。伊東甲子太郎が入隊したことで、次第に山南の影が薄れ、たまらず脱退したようです。実は、山南を捕え連れ戻し、切腹の介錯をしたのは、沖田総司。彼も、山南を慕っており、総司の苦しみはどれほどだったかと…。伊東を勧誘した平助とどちらが苦しかったでしょう。

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