幕末日本の歴史江戸時代

新選組八番隊組長「藤堂平助」魁先生と呼ばれた若き志士の人生を解説

ちょっと雑学

坂本龍馬が中岡慎太郎と一緒に、近江屋に身を隠していたことはご存知でしょう。伊東は龍馬たちの暗殺の危機を知っており、「ここは危険だから、すぐに土佐の藩邸に身を隠せ。」と伝えに出向いています。

でも、伊東は龍馬と面識がなく、幕吏に追われ身を隠していた龍馬との面会は皆無です。伊東が佐幕側ではないことと、朝廷の側近と薩摩の口添えがあり、ボディガードとして同行させた平助が玄武館時代に龍馬と面識があったから叶ったと想像できます。(龍馬は千葉周作の弟定吉に北辰一刀流を学だというのが通説ですが、実は他の土州人と共に玄武館で学んだのが事実とか。)。でも、龍馬たちは藩邸へ行きませんでした。

4-2新選組脱退後の平助

伊東が新選組脱退の後に結成した「御陵衛士(ごりょうえじ)」に、平助や斉藤一ら新選組より14名が移っています。この時、伊東は孝明天皇陵の護衛を拝命しており、「尊皇派(朝廷第一主義)」の彼にとっては誉なことでした。また、薩摩と長州の動きを、新選組に伝えるという協力関係を名目に結成したとされています。

斉藤一は近藤や土方のスパイで、御陵衛士の情報が筒抜けでした。伊東は、”近藤や土方を殺し新選組の隊士を、そっくり御陵衛士へ組み込もう”と企んでいたのです。御陵衛士は、東山の高台寺に屯所があり、「高台寺党(こうだいじとう)」とも呼ばれていました。

4-3暗殺される伊東甲子太郎

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By 虹村千鳥Own work, CC BY-SA 4.0, Link

企みを知った近藤と土方は、伊東の暗殺の機会を狙っていたようです。その裏で、近藤は伊東に和解のため、会談を開こうと連絡を取ります。近藤の愛人宅に伊東をおびき出し、暗殺しようとしたのです。それを知らない伊東は、和解が成立し気持ちよく酒を飲み千鳥足で帰宅途中に、新選組に暗殺され七条油小路に放置されました。

新選組内には、「伊東の死を知った御陵衛士の隊士が来る。奴らを皆殺しにせよ!」とのお達しがでていました。「伊東が暗殺された!」と町人に化けた新選組隊士が、真夜中に御陵衛士に伝えてきました。これを聞いた平助ら御陵衛士の7人が、取る物も取り敢えず駆けつけました。彼らは、新選組の罠と知るも、居てもたっても居られなかったのです。

4-4近藤と土方の考え方の違い

油小路には、13人の新選組隊士が待ち構えていました。彼らの現場責任者は、永倉新八と原田佐之助。2人は新選組初期メンバーで同じ釜の飯を食った平助を見捨てられない近藤から、「平助だけは見逃せ!」といわれていたようです。

でも、裏で土方は、事情を知らない新入隊士をメンバーに揃えました。近藤と違い土方は、誰であれ裏切り者は許さんといった性格でした。土方は「平助だけは、仕留めろ!」という勢いだったのでしょう。でも、平助が試衛館で度々手合わせをしていたのは土方で、永倉ほどではありませんが親友だったはずなのですが…。

4-5油小路で無念の死を遂げる平助

永倉と原田は現場で平助に、目配せで逃げ道を教え命を救おうとしたのです。しかし、手柄を挙げたい新入隊士の三浦常太郎に、背中を袈裟懸けに斬られました。「武士が背中を斬られたのでは、一生の恥」と戦いを続け、更に複数の傷を負います。致命になった顔面の傷は、長さ21cm、深さ6cmもあり即死だったとか。平助は最後の力を振り絞り、三浦の足を振り向きざまに払ったとか。

伊東や平助らの遺体は、残りの御陵衛士を誘き寄せるため、2日間も京の寒空の下に晒されました。遺体を引き取りに来ると思われた仲間は来ず、四条大宮の光縁寺に葬られ、翌年御陵衛士たちにより戒光寺に埋葬されています。

藤堂平助の死後近藤勇はその死を惜しみながら、平助の親友だった永倉と語りあいました。永倉が油小路の変で、平助を逃がそうとしたことを打ち明けると、「その話は誰にもするな」と口止めをしたようです。心なしか、近藤の目には嬉し涙が浮かんでいたとか。でも、油小路の変が悪の連鎖を生み、仇討ちが続き近藤勇を追い詰めます。

24歳で命を散らした白梅は、人生に満足していたのでしょうか?

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藤堂平助だけでなく幕末の志士たちは、自分の活躍の場を求めていました。新選組隊士の中には、自分の死場を探して辿り着いたものもいたでしょう。死を恐れずに戦い、平気で人を殺す新選組のあり方に疑問を抱いた平助は、勤王を掲げ躍進する「御陵衛士」という新しい舞台に立つも、志半ばで命を落としました。彼は、自分の人生に満足していたのでしょうか…?でも、近藤勇や永倉新八らに、大切にされていたのは事実のようで、彼の人生を振り返った者としてちょっとだけ救われた気がします。

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