幕末日本の歴史江戸時代

新選組八番隊組長「藤堂平助」魁先生と呼ばれた若き志士の人生を解説

2-2新選組へ繋がる試衛館の食客となる

最後に入門したのは、市ヶ谷にあった天然理心流の「試衛館」で、新選組隊長近藤勇の道場でした。福地源一郎桜痴が土方歳三と沖田総司と稽古する姿に感銘を受けたからです。平助は10代後半に関わらず、他流派の道場で代稽古を勤めます。剣の腕前は優れており、天才肌ということが分かるでしょう。また、剣客となった後の強豪振りを見れば納得いくはず。

この道場には司馬遼太郎が評した、新選組強豪剣客ベスト6の内5人がいました。土方歳三、沖田総司、斉藤一、永倉新八、藤堂平助の、5人。因みに残りの一人は、播磨赤穂藩を脱藩して新選組に入隊した服部武雄です。

2-3平助が持っていた剣は名刀「上総介兼重」だった

北辰一刀流の中目録を習得した後、玄武館を辞め、伊東甲子太郎(かしたろう)の伊東道場に入門しました。その後、近藤勇の試衛館に入門し天然理心流を学んでいます。新選組最年少幹部の一人とはいえ、武士階級の身分でもない名刀「上総介兼重」を携えていたのです。新選組の中で、一番高価な剣といわれています。町人出身と考えられる平助が、こんな名刀を持ち、月謝の高い道場に通えたのは、藤堂高猷の落胤が正解だからなのでは?

この愛刀は、2尺4寸2分の長さだとか。平助の身長は約150cmなので、かなり長いものを使っていたようです。身長が約175cmもあった北辰一刀流の剣客坂本龍馬が、2尺2寸の愛刀だったといわれています。平助に長刀を持たせたのは、長剣論者で有名な近藤勇の影響だったようです。

3.若くして新選組に入隊し名を揚げる平助

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試衛館にいた山南敬介を、平助は尊敬していました。彼が「浪士組」に参加したことで、平助も行動を共にしたようです。平助には、修行で身に付けた剣の腕前を試したかった気持ちもあったようですが…。ここから、新選組の隊士となり、佐幕派の先鋒部隊として活躍することになります。それでは、幕末志士藤堂平助の生きざまを考察してみましょう。

3-1浪士組に参加し京へ向かう

試衛館にいた平助は、近藤勇以下弟子や門下生らと共に浪士隊に参加します。文久3(1863)年2月8日に江戸を出発し、3月23日に上洛しました。この時、血気盛んな土方や平助らは「悪者」と呼ばれ、200人もいた浪士隊の中でも、手に負えない浪士とされていたようです。

浪士組は庄内藩郷士清河八郎が、京へ上る将軍徳川家茂の警護という名目で結成しました。しかし、本当の理由は尊皇攘夷の魁となる、人材を集めることだったのです。朝廷と幕府が離反したときは朝廷に就くという「尊王攘夷」は、当たり前の時代で反対する者はいません。騙されたと知っても自分の居場所を探す浪士たちにとっては、何の問題もなかったようです。清河は建白書を御所に提出し、攘夷のため江戸へ帰還しますが、何者かに暗殺されました。江戸に戻った浪士たちは、庄内藩御預かり「新徴組」に入隊します。

近藤勇ら試衛館一派や芹沢ら水戸一派などは、清河と袂を分かち当初の目的だった将軍の警護を遂行するため京に残留しました。その訳は、朝廷と幕府が一体となり政を行う、公武合体が正当と考えたからのようです。京に残ったものが、後の新選組となる壬生浪士組となりました。

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