日本の歴史昭和

唯一の被爆国として堅持すべき「非核三原則」とは?詳しく解説

キューバ危機による核戦争の恐怖が世界に知れわたる

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しかし、1962年にソ連が共産革命の成立したキューバにミサイルを持ち込もうとしたことからキューバ危機が起きました。アメリカにとっては喉元に当たる位置にあるキューバ島には米国領もあり、そこには拷問も行われて悪名高いグァンタナモ刑務所もあったのです。

そのような環境下で、東西冷戦の相手であるソ連が核ミサイルを持ち込もうとしたことから、米国は猛反発しました。当時のアメリカ大統領であったケネディは、核戦争も辞さない姿勢でソ連のフルシチョフ書記長と交渉をおこなったのです。そのため、世界中で核戦争の危機が現実のものとして認識されるようになりました。幸いにして、ソ連のフルシチョフが譲歩してミサイルは持ち込まなかったため、危機は回避されています。しかし、世界中で核兵器をこのまま、大国が持ち続けることに対して危機感を共有するようになりました。

そのため、国連主導で核実験禁止条約や核拡散禁止条約が成立することになったのです。ただ、大国の核保有は認められ、条約に参加していない国の核実験、核兵器保有は阻止できない抜け穴だらけの条約になったため、実質的な効果は弱かったといえます。

核兵器の縮小に向けた動きと米ソの疲弊

一方、核兵器開発に邁進した米ソともに国内的に財政が疲弊してしまいます。さらに世界的な核軍縮に対する要求もあり、1980年代以降に中距離核戦力全廃条約(INF)や第一次戦略核兵器削減条約(START1、2)などの核軍縮の条約を結ぶことになりました。

すなわち、核兵器自体の恐怖よりも財政破綻が核軍縮をもたらしたといえるのです。

日本における非核化への動き

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このような世界の核兵器に対する非核化要求の流れに対して、日本はどのような経過をたどって非核三原則に至ったのかを見てみましょう。

東西冷戦とサンフランシスコ平和条約による再独立

日本は第二次世界大戦に敗北し、戦後は連合国のGHQによる占領状態に置かれていました。しかし、東西冷戦の発生と朝鮮戦争の勃発によって共産主義拡散の防波堤としての日本の位置付けが認識されるようになっていきます。その結果、吉田茂首相の根回しにより、1952年にロサンゼルス平和条約が西側諸国と結ばれ、同時に日本とアメリカは日米安全保障条約を結び、防衛を米軍に依存する形で我が国は再独立を果たしたのです。しかし、東側諸国との平和条約は結ばれておらず、最初から戦争に巻き込まれる可能性が指摘されていました。

ビキニ環礁における第五福竜丸の被爆による非核化運動の高まり

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また、1954年にフランスは自国領の太平洋のビキニ環礁で核実験をおこないましたが、当時日本の漁船であった第五福竜丸はそれを知らずに漁業を続けていました。そのため、核実験による放射能を浴びて被爆することになり、日本国内では核実験に対する反対運動が活発におこなわれるようになったのです。同時に、広島、長崎の被爆に対する思いも高まっていき、原水爆禁止の運動が起こりました。

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