日本の歴史昭和

唯一の被爆国として堅持すべき「非核三原則」とは?詳しく解説

日米安全保障条約の改定による戦争への恐怖が現実に

その後、1959年に日米安全保障条約の改定が必要になりました。元A級戦犯で戦争に対する反省のない岸信介首相は、この日米安保条約の改変を狙います。日本がアメリカに守ってもらうだけの条約ではなく、アメリカに攻撃がおこなわれた場合には日本は同盟国として参戦する形の相互安保条約に改定をおこなおうとしたのです。

そのため、日本国内では、戦争に巻き込まれる恐れから日米安保闘争が繰り広げられ、国会には数十万人というデモ隊が押し寄せました。しかし、それでも岸首相は条約改定を推し進め、国会の条約批准がすむと退陣したのです。これによって、米軍が戦争状態になれば、日本も攻撃を受ける可能性が出て、とくに米軍が核兵器を持ち込めば、核攻撃を受ける可能性が生じました。

中国の核開発による核戦争の恐怖の高まり

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東西冷戦の影響が続き、まだ中共と呼ばれ、国連にも代表権を持たなかった中国は、アメリカへの対抗から、1964年にはじめて核実験をおこないます。さらに、その後水爆も開発して、核兵器を実戦配備するようになったのです。そのことから、日米安保条約によって核戦争の恐怖が日本国内に高まることとなりました。同時に、アメリカが日本国内の米軍基地に核兵器を持ち込み、配備するのではないかという懸念が強まります。

国会での非核三原則の宣言

そのため、国会でも野党からアメリカの核持ち込みを指摘されるようになり、国会で盛んに議論がおこなわれるようになりました。同時に日米安全保障条約で、核兵器の持ち込みを認める密約があるのではないかと疑いも持たれるようになったのです。

国会でこの論議が盛んにおこなわれたため、当時の総理大臣であった佐藤栄作は、国会答弁のなかで、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)を宣言してこの論争に終止符を打とうとしました。

その後の世界の核兵器の状況

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国連主導で核拡散禁止条約や部分核実験禁止条約が結ばれましたが、実際には既存の核保有大国の反対があり、その条約は抜け道が存在していました。そのために、核兵器や原子力による放射能の恐怖は現在まで払拭できていないのです。この抜け道の結果を見ていきましょう。

中国、インド、パキスタンの核実験と核兵器の保持が既成事実に

条約が結ばれた時点では、核保有国は、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの4ヵ国でした。しかし、その後も未加盟であった中国、インド、パキスタンが核実験をおこない、核保有を実現し、既成事実化してから加盟したため、事実上保有が認められることになったのです。現在では、核保有国は7か国になっています。

北朝鮮とイランの核実験

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現在でも、北朝鮮イランは、核拡散実験をおこなっています。これらの国はすでに核保有を実現している可能性があり、今後その技術、核武装を放棄する可能性は極めて低いと言わざるを得ない状況にあるといえるのです。

これによって、中東、東アジアの戦争リスクは高まっているといえるでしょう。

米ロの核軍縮条約の破棄

アメリカは、トランプが大統領になってからロシアとの関係を悪化させたことから、中距離核弾頭削減条約(INF)の廃棄宣言をおこない、ロシアも応じてしまいました。その結果、再び核軍備の拡大と核開発競争が始まろうとしています。

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