生来の臆病な性格が「慎重さ」を育んだ?
氏康がまだ伊豆千代丸と名乗っていた幼少期の逸話にこのようなものがあります。小田原に伝来した鉄砲の教練を見学している最中、そのあまりの轟音に驚き失神してしまったそうです。
気が付いた伊豆千代丸は、鉄砲の音ごときで驚いて失神してしまった自分を大いに恥じ、「家臣たちの目の前で醜態を晒すとは何たること!」と自害しようとしました。
すると伊豆千代丸の傅役だった清水吉政が押しとどめ、こう諭しました。「初めて見ることに驚かれるのは当然のことであって決して恥ではございません。むしろ、あらかじめ心構えをしておくことが大事なのです。」
そう気付かされた伊豆千代丸は、それ以降はどんな時でも堂々とした態度で臨み、常に事前の心構えを忘れなかったそう。後年の氏康は慎重で緻密な戦略を立て、後北条氏がますます発展していく礎を築くのですが、もしかしたら幼少の臆病だった性格がプラスに転じたのかも知れませんね。
それともう一つ、鉄砲の音に驚いたという逸話ではあるのですが、日本に鉄炮が伝来したのは1543年になってからのこと。伊豆千代丸が幼少の頃だったとすると計算が合いません。おそらくは弓矢や刀槍の武術訓練に驚いたのではないでしょうか。
氏康の華々しい初陣
伊豆千代丸は1529年に元服を行い、改めて氏康と名乗りました。そしてその翌年の16歳の時、いよいよ初陣を果たすことになるのです。関東管領両上杉氏との熾烈な戦いの最中のことでした。
1530年6月、扇谷上杉氏の上杉朝興は、氏康が陣を敷いていた小沢城(神奈川県多摩区)を攻撃するため、深大寺城(東京都調布市)に軍を進めました。まだ戦いの経験のない16歳の御曹司をそんな最前線に置くということ自体驚きなのですが、それだけ争いが激しかったことを意味するものなのでしょう。
まず緒戦は後北条方が不利となり、退勢を挽回するために氏康は小沢城に籠城しました。それを見た扇谷上杉勢は「勝利は近い」と判断して翌日の攻撃に備えて野営したそうです。しかし、相手が小童だと侮ったのか警戒を怠ったのが命取りでした。
氏康は幼い頃から共にいた清水吉政、地元の武士中島隼人佐らを引き連れ、夜陰に乗じて上杉方の陣に襲い掛かりました。不意を突かれた上杉勢は算を乱して瞬く間に敗走。後北条勢は逃げる上杉勢を追い崩して「勝った!勝った!」と叫びながら追撃したそうです。
戦場は小田急新百合ヶ丘駅北側のあたりと想定されており、千代ヶ丘山辺公園の付近には「勝った!勝った!」と後北条勢が叫びながら駆け上ったという「勝坂」があります。そしてこの「小沢原の戦い」が氏康の華々しいデビュー戦となったのです。
第一次国府台合戦と父の死
初陣を果たした氏康は、その後も父に従って各地の戦場で経験を積んでいきました。しかしそんな北条父子の前に両上杉以外に新たな敵が現れたのです。それが古河公方の流れを汲む小弓(おゆみ)御所との対決でした。
関東における足利氏の一門。いわゆる古河公方は既に実力は失っていたものの、その権威は依然として高く、関東の武士たちの旗頭として存在は際立っていました。ところが足利氏内で内紛が勃発した挙句、僧籍に入っていた次男が自主独立を図り、還俗した上で足利義明と名乗りました。
義明は生来武勇に優れ勇猛だった人物のようで、独力で小弓城(千葉県千葉市)を奪取し小弓御所と自称したのです。この義明は野望にも満ち溢れており、力を失った足利氏を再興させるために鎌倉を奪い、新たな鎌倉公方として君臨することを目指しました。そのため小田原に本拠を構える後北条氏が、とにかく邪魔で仕方がありませんでした。
1538年、房総半島の戦国大名里見氏と同盟した義明は、関東の中心部へ進出するべく千葉県松戸市の相模台に軍を進めました。それに呼応して北条氏綱・氏康父子も迎撃するべく出陣。現在の常磐線松戸駅のすぐ近くで激突したのです。
豪勇を誇る義明は「我は足利の一門。恐れ多くて敵は弓が引けるものか。敵が川を渡るのを待ってから迎え撃つ。」と名門を鼻にかけて言い放ちますが、同盟軍の里見義堯は「敵が江戸川を渡河中に討つべき!そんな悠長なことでは勝利はおぼつきませぬ!」と大反対。進言を聞こうともしない義明に愛想を尽かして別の場所に陣を張ってしまいました。
合戦は数で優勢な後北条方が押しまくる展開となり、弟や息子が討ち死したという報に接するや義明は逆上。群がる敵軍の中へ無謀にも突撃し、壮烈な討ち死を遂げてしまいました。
結局戦いに参加しなかった里見勢は無傷で引き揚げますが、この戦いによって下総国(千葉県西部)も後北条氏の支配下に入ることになったのです。
その4年後、父氏綱が死去したため3代目の家督を氏康が継ぐこととなりました。いよいよ関東管領両上杉との決着の時が訪れます。
後北条氏、関東の支配者となる
様々な勢力が入り乱れて混沌としていた関東地方ですが、いよいよ後北条氏が事実上の「関東のあるじ」となる時が訪れます。それは「河越城の戦い」から始まりました。
両上杉を撃破!河越夜戦
氏康が家督を継いだ頃、駿河の今川氏との関係は険悪化していました。なぜなら氏綱の代に今川領の東半分を奪っていたからです。また後北条氏と対立していた両上杉氏とも連携を強めて、挟み撃ちの機会を虎視眈々と狙っていました。
氏康が今川義元と対峙して駿河に陣を敷いていた1545年、扇谷・山内の両上杉氏は8万ともいわれる大軍をもって河越城を取り囲みました。城に籠城するのは義弟の北条綱成ほか3千ばかり。氏康が早急に駆け付けられないだけに、彼らの運命は風前の灯火でした。
しかし河越城の食糧備蓄は十分にあり、固く城を守ること半年。それだけの時間稼ぎをしてくれれば氏康にとって幸いなこと。なんとか今川方と和睦を結んで引き返してきた氏康でしたが、敵軍とは戦力差がありすぎました。後北条方はどんなに数を集めても1万ちょっとです。
そこで一計を案じた氏康は「降伏する」と偽って敵の油断を誘おうとしたのでした。河越城を包囲すること半年。長い戦陣暮らしに飽き飽きしていた両上杉軍の士気は緩み、後北条方の降伏表明を受け取ったことで楽観ムードが蔓延することになりました。
そんな敵の油断を見逃す氏康ではありません。兵たちの鎧をすべて脱がせて身軽にさせ、音もなく敵陣へ近づくや夜陰に乗じて一斉に攻撃させたのです。両上杉軍は大混乱に陥って戦うどころではありません。暗闇の中、恐慌をきたして逃げ惑うばかり。戦死者は1万5千にまでのぼり、壊滅的な打撃を受けてしまったのでした。
そればかりではありません。扇谷上杉の当主朝定までもが討ち死してしまい、扇谷上杉家は滅亡に追い込まれてしまいました。
結果、この戦いで勢いを増した後北条氏は完全に関東における主導権を握り、事実上の関東のあるじとなったのです。
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甲相駿河三国同盟成る
後北条氏が関東を掌握したことで、名実ともに武田氏や今川氏らと双璧を為す戦国大名へと成長しました。ところが後北条氏にとって背後にある駿河の今川義元の動きが気になるところ。せっかく関東管領上杉氏はじめ抵抗勢力を排除しようとしても、背後から襲われたのではたまったものではありません。
1554年、氏康にとっては願ってもない好機が訪れました。今川方の軍師太原雪斎から武田・後北条・今川の同盟締結が働きかけられたのです。後北条氏にとっては後顧の憂いをなくして関東経営に専念したいところですし、今川氏も西の織田氏と対峙しているためそちらの方に専念したい。武田氏も越後の上杉氏と川中島で対峙していたため背後の脅威をなくしたい。という意味からそれぞれにメリットがあったといえるでしょう。
こうして三家それぞれが婚姻関係を結ぶことで三国同盟が完成し、それは武田氏が今川領へ侵攻するまでの14年間守られ続けました。