室町時代戦国時代日本の歴史

戦国の群雄たちと渡り合った相模の獅子「北条氏康」の生涯をわかりやすく解説!

新たな強敵。上杉謙信

1552年、上杉憲政の平井城が落城するに及び、ついに関東管領家は縁戚を頼って越後国へ落ち延びていきました。長らく敵対していた関東管領の滅亡と呼んでも良いでしょう。

しかし、このことが氏康にとって新たな敵を呼び込むことになりました。1560年、憲政を奉じた長尾景虎が大軍を率いて関東へ侵攻してきたのです。のちの上杉謙信ですね。この頃には息子の氏政に家督を譲っていましたが、実権は氏康が握っています。

後北条方に服属していた関東諸将たちは、景虎の威勢に従って続々と離反。征伐軍に加担して景虎の軍勢は膨れ上がりました。さしもの氏康も正面切って戦うことの愚を悟り、この頃には巨城となっていた小田原城で籠城する構えを見せました。

小田原城は豊臣秀吉の天下の大軍を引き受けたことでも有名ですが、この時も景虎率いる10万にもおよぶ大軍に対してビクともしませんでした。さしもの景虎も長期にわたって滞陣を続けることのデメリットを痛感したのか、早々と引き揚げていますね。

またこの際、景虎は上杉憲政から正式に関東管領職と上杉姓を譲られ、上杉政虎と名乗るようになりました。皆さんがよく知る「謙信」という法号は、この8年後に名乗ることになります。

小田原城の包囲を解いた上杉政虎は、関東管領の名のもとに翌年以降も頻繁に関東出兵を重ね、それは10年以上にも及びました。とはいえ関東の諸将たちは上杉軍がやって来れば上杉に付き、上杉軍が去れば後北条方に帰属するという有様で、彼ら関東諸将もまた生き残りに必死でした。氏康はそんな関東の事情などとっくにお見通しで、勢い込んでやって来る上杉の軍勢を、まるで手のひらで転がすかのようにあしらっていました。

氏康の戦略は、ひたすら上杉を翻弄し疲弊させるものだったといえるでしょう。

氏康、最後の日々

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関東経営にひたすら専念し、上杉氏や里見氏などと対峙していた氏康にとって安寧の時は訪れません。彼の最期に至るまでの日々をご覧ください。

領国の維持に腐心する氏康

対上杉との戦いは終始、後北条方の優勢のまま展開していました。なぜなら上杉の本国は遠い越後にあり、毎年のように出張ってくる上杉勢さえあしらっておけば、時期が来れば必ず撤退したからです。

ところが房総半島に根を張る里見氏がなかなか手ごわい。1564年の第二次国府台合戦で里見勢に勝利したものの、続く三船山合戦では逆に苦杯を舐めさせられてしまいました。

すでに家督を譲られていた氏政が里見氏攻撃に向かうも、逆襲に遭い完敗した戦いですが、この敗北によってせっかく味方に付けた国人衆たちの離反を招き、先の国府台での勝利を帳消しにしてしまったのです。こうして里見氏を屈服させることに失敗した後北条氏は戦略の変更を迫られることになりました。

また、常陸国(現在の茨城県)の戦国大名佐竹氏の動向も気がかりなところです。関東地方へ勢力範囲を南下させる動きもあり、無視できない存在となっていました。

こうして氏康の時代には盤石かと思われた関東経営も、新たな敵の出現や状況の変化によって刻々と様相を変えており、いかな氏康の力量をもってしても領国の維持にかなり腐心していたといえるでしょう。

信玄が敵となり、謙信が味方に

ちょうどこの頃、甲相駿三国同盟も破綻の危機に瀕していました。1560年の桶狭間の戦い今川義元が討ち死し、今川氏の勢いに陰りが見えてきたからです。かといって跡継ぎの今川氏真は暗愚を絵に描いたような人物。同盟のパワーバランスが崩れた時、武田信玄の食指が動いたのは言うまでもありません。

1568年、ついに駿河へ雪崩れ込んだ武田軍は破竹の進撃を続けて今川領を占領。娘を今川氏に嫁がせていた氏康は援軍を派遣します。それと同時に三国同盟は破綻し、武田と後北条は敵対関係となりました。なんとか東駿河の確保に成功するものの、これで後北条氏は上杉・里見・武田と3方向に大きな敵を抱えることになったわけです。

しかし、後北条氏はここで思い切った戦略の転換を行おうとしました。長年の敵上杉謙信と和睦して圧力を減らし、本格的に武田氏・里見氏に的を絞ろうとしたのです。

当初は難色を示した謙信も、関東出兵がうまくいかないことと、西の越中方面へ目を向けるべく和睦&同盟締結を承諾しました。これを越相同盟といいます。しかし、そもそも水と油の間柄だった両家だけにトラブルも絶えず、氏康の死後に同盟は解消されていますね。

相模の獅子、死す

いったんは上杉氏と同盟を結んだといっても敵対する武田氏は強敵でした。駿河戦線でも着実に領土を広げつつあり、上野国(現在の群馬県)はほぼ武田の支配下に入りつつありました。

そして1569年には、いよいよ後北条氏の本拠まで攻め込まれることになるのです。2万の軍勢を率いた信玄は武蔵国を南下して小田原城の近くにまで迫り、大いに気勢を上げます。かたや氏康は固く城を守って籠城の構えを見せました。とはいえ上杉率いる10万の兵で落とせなかった小田原城を、たった2万の軍勢で何とかできるものではありません。信玄は最初から攻め落とすつもりなどさらさらなく、単に「北条の喉元まで攻め込んだ」という既成事実が欲しかったのでしょう。去就に敏感な関東諸将を靡かせるには、その事実だけで十分でした。

いっぽう、滝山城や鉢形城に籠っていた息子の氏照・氏邦たちは武田軍の帰路を狙って追撃を開始しました。ところが、この三増峠の戦いと呼ばれる戦いで、せっかく追撃態勢に入りながら武田軍主力を取り逃がし、反撃を受けて損害を受けてしまったです。氏政の本隊も氏照たちの敗退を聞きつけて進軍をストップしてしまいました。

報告を受けた氏康は、北条の将来にいささか暗雲を見たのかも知れません。

「里見に勝てなかった氏政といい、今回の氏照・氏邦の失態といい、どうも我が息子たちは才能がない。これで北条の未来は大丈夫なのか。」

翌年以降、氏康は重い病を患い、床に臥すことが多くなりました。そして救援を要請してもいっこうに動いてくれない上杉謙信を非難しつつ、上杉との同盟を破棄し、再び武田と結ぶよう遺言を残したそうです。

1571年10月、氏康は息を引き取りました。享年57。関東に覇を唱えた「相模の獅子」の最期でした。

 

「夏は来つ 音に鳴く蝉の 空衣 己己の 身の上に着よ」

(毎年夏が来て、鳴く蝉の抜け殻のように、各自それぞれが身の丈に合った衣服を着るように)

 

氏康の辞世の句ですが、彼は息子たちの器量の程をよくわかっていたのでしょうね。「過信せず、自分の能力に見合った生き方をしなさい。」こう言いたかったに違いありません。

しかし氏康のそんな思いも虚しく、その死から20年後、豊臣秀吉の大軍を引き受けた小田原城は開城。関東の覇者となった後北条氏も滅亡の淵へと転がり落ちていったのです。

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明石則実