ドゴール主義とフランスの栄光
アルジェリア独立によってフランスの植民地支配は終焉を迎えましたが、ドゴールはかつての大国のフランスを再び実現させるためにフランスの栄光を掲げる政策を次々にと打ち出していくことになります。
1960年にはサハラ砂漠にて核実験を強行し核保有国の一員となり、アメリカが主導していた北大西洋条約機構(NATO)から脱退。さらには西側諸国に先駆けて中華人民共和国の承認を行い、東側諸国との交流を深めていくことになります。
このようなフランスの孤立主義と独自の外交政策はドゴール外交として知られることになります。
五月危機とドゴールの辞任
こうしてフランスは再び栄光の国になるかと思われましたが、時代は地道に左傾化の一途をたどっていくことになります。1955年から始まったベトナム戦争にはアメリカの介入の阻止とベトナムの中立化を目指しましたが、アメリカがこれを拒否。ベトナム戦争は泥沼の戦争となっていきます。さらにはフランス政府のあまりにも強硬な姿勢や旧体制を感じさせる政治体制に国民は反感を招くことになります。
また、1960年後半には世界規模で学生運動が活発化。この学生運動はフランスでも例外ではなく1968年に入るとフランスでも学生運動が巻き起こることになります。
1968年3月、パリ大学で新左翼と名乗る学生が大学を占領。5月には大学を閉鎖したことに抗議した学生がパリ市内の学生街であるカルチェラタンに集結し警官隊と衝突することになります。そしてこの鎮圧の最中労働者のデモが起こりドゴールは一気に苦境に立たされることになりますが、なんとか議会選挙で勝利したことによっな辛くも苦境から脱出することになります。
しかし、この時ドゴールはもう78歳。国民もドゴールからの脱出を図りたいと思い始めており、ドゴールも地方自治に関する改革案が国民投票によって否決されるとドゴールは時代の変化を悟り直ちに大統領を辞任。10年も及ぶドゴールの時代に幕が降ろされたのでした。
こちらの記事もおすすめ
ベトナム戦争についてわかりやすく解説!~大国アメリカの敗北~ – Rinto~凛と~
ドゴールの死去とそのフランスのその後
大統領を辞任した後、ドゴールは地方の山村に住居を構え執筆活動に専念して余生を送ります。しかしドゴールは大統領を辞任した1年後に79歳で死去。ドゴールの遺言では葬儀は簡素にすることを希望しましたが、フランス政府によって国葬となりました。
その後、フランスでは左翼陣営の分裂もあり、ドゴールの政治体制を継承するポンピドゥーが就任。ドゴールの政治体制がそのまま引き継ぐ形となったのです。
まさしくドゴールはフランスの現代を築き上げた人物だったのですね。