フランスヨーロッパの歴史

フランスの大統領「シャルル・ドゴール」とは?フランスの英雄をわかりやすく解説

第二次世界大戦の勃発

image by PIXTA / 19730936

1939年9月、オーストリア、チェコスロバキアを併合し意気揚々なヒトラーは第一次世界大戦で失ったダンチィヒを返還するようにポーランド政府に通達。これを拒否したことによってドイツはポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発しました。

ドイツ軍は皮肉にもハインツ・グデーリアン将軍によってドゴールが構想していた電撃戦を駆使。ポーランドを僅か2週間で叩き潰し軍をフランス方面に転換していくように。

フランスはご自慢のマジノ線を使って対抗しようとしたのですが、マジノ線から出てこないと判断したドイツ軍はわざわざオランダ・ベルギーに侵攻しマジノ線が建築されていないフランス北側を迂回。装甲部隊の大群がフランス国境に侵入してわずか1ヶ月でフランスは反撃不可能の大打撃を負ってしまうことになります。

ドゴールは部隊の指揮から外れ少将として軍の指揮を執るのですが、国境を越えたことでフランスはなし崩しに占領され1940年6月15日にパリが陥落。ドゴールはイギリスに亡命し6月25日にフランスは無条件降伏。

フランスの領土の5分の3がドイツに割譲され、フランスはドイツの属国に成り下がったのでした。

ロンドンにおける亡命放送

イギリスに亡命したドゴールはロンドンに亡命政府「自由フランス」を結成。ロンドンにおける地位を確立してふたたびフランス本土に舞い戻ろうと考えていました。そこでドゴールはBBCラジオを通じて対独抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかけ、レジスタンス活動の展開を行わせようとしたのです。しかしドゴールの風当たりは非常に厳しく、このラジオ自体当時直接聞いていたものはほとんどおらず、さらにアメリカを含めてほとんどの連合国がヴィジー政府をフランス政府として公認していたのです。

イギリス首相チャーチルはこのドゴールの活動を助けましたが、ドゴールの立場は非常に危うい状況でした。

その後、ドゴールはヴィシー政府から自由フランスに寝返った北アフリカを中心に活動拠点を移転。ここで自由フランス軍を指揮する任務が与えられたのでした。

北アフリカ戦線と運命の1944年

フランスが陥落してから2年後の1943年1月、この頃になると北アフリカ戦線は連合軍有利となっていき、カザフランカではフランスの指導者を決めるための会談が開かれました。

 さらに5月にフランス国内のレジスタンス組織全国抵抗評議会はドゴールをレジスタンスの指導者と決定。6月にはドゴールがフランスの共同代表として就任することになります。

さらには1944年にフランス共和国臨時政府に改組された際にはドゴールがフランスの代表者となりました。

そして1944年6月に連合国はイギリス・アメリカを中心として史上最大級の上陸戦であるノルマンディー上陸作戦を敢行。ドゴールはフランス軍の指揮者として奮闘し、翌月にはパリを解放。エトワール凱旋門の凱旋パレードではナチスドイツに苦しめられてきたパリ市民が押し寄せ、ドゴールに喝采を浴びせました。

そして1945年に終戦を迎えると臨時政府はドゴールを国家主席に選出。ドゴールは翌年に軍事費の大幅な削減に反発して辞職しましたが、これによってドゴールはフランスの有力者として見られていくことになりました。

第四次共和政の成立とドゴールの一時的な引退

フランス解放後、フランスでは第四次共和政が成立しましたが、フランス政府内では憲法の制定で大きく対立。ドゴールは第三次共和政が政府の権限があまり強くなかったことを受けて政府と大統領の権限を強化し政府内部での統一が図られるべきだと主張。しかし、消極的な政治家などの反発のあり実際には採択されたフランス第四共和政憲法には反映されることはありませんでした。ドゴールはさらにルノー、エールフランスといったフランスの有力企業を国営化。さらにドゴールとの親交が深い財閥との関係も強化していきます。そして冷戦に突入していきアメリカが西ヨーロッパに対してマーシャルプランを行い始めるとドゴールはこの案を受け入れ経済のさらなる発展を計画。1951年には欧州石炭鉄鋼共同体が誕生し、西ヨーロッパの団結が図られることになります。

しかし、ドゴールが計画していたドイツザール地方の独立が西ドイツ首相アデナウアーが計画した西ドイツへの統合を住民投票で選択したことによって阻止されるとドゴールは政治家を引退。一時的に公の場から姿を消すことになりました。

アルジェリアの大反乱とドゴールの再登場

ドゴールが政治の表舞台から姿を消した後、フランスでは思わぬ形で苦境に陥ることになります。第二次世界大戦の終結後、世界では植民地支配から脱出するために各地で独立運動が活発化。フランスでもフランス領インドシナや、アルジェリアなどで反乱が横行することになります。特にアルジェリアの大反乱はアラブ人の独立運動を激しく弾圧したことや、スエズ戦争でイギリスと共に出兵したことが国際的に非難を浴びることになりました。

フランス政府はアルジェリア問題をなんとか抑えつけるためにフランス最大の英雄となっていたドゴールに再び政治の表舞台に立つことを説得。

ドゴールはアルジェリア問題を解決するだけの権力を条件として受け入れることに合意し、ドゴールは1958年に再び首相に返り咲くことになります。

第五次共和政の成立

ドゴールは首相に就任したのち、政府と大統領の権限を強めるために第五次共和政憲法を立案。そして1958年9月に行われた国民投票で投票者の80パーセント近くもの賛成により承認され、10月4日に第五共和政憲法が制定。フランス第五次共和政が成立し、ドゴールは第18代大統領に就任しました。

ドゴールはその後、アフリカの自治権の拡大を認め、1962年にはアルジェリアの独立を承認。

これを皮切りにフランスの植民地であったアフリカの大半の国が1960年代に独立していくことになります。

次のページを読む
1 2 3
Share: