秀吉から家康へと主を変え、教養に助けられて生き抜く
明智光秀に協力しないことを選んだ幽斎は、その後豊臣秀吉、徳川家康へと主を変えていきます。彼の深い教養は天下人や公家、天皇にまで高く評価されており、時に負け戦が天皇の命令で講和に持ち込まれたこともありました。戦国の荒波を乗り切った幽斎が老後をどう生きたのか、見ていきましょう。
当代一の教養人として、秀吉に重用される
光秀に味方しないという幽斎の決断は、結果として正解でした。幽斎だけでなく他の武将にも協力を断られた光秀は、怒涛の速さで戦場から戻ってきた豊臣秀吉に山崎の戦いであっけなく敗れ去ったからです。まさに光秀の三日天下でした。
そして幽斎は、今度は秀吉に従うようになります。秀吉の天下統一に向けた各地の平定戦に参加し、信頼を得た彼は、いっそう秀吉に重用されるようになりました。
というのも、秀吉は千利休(せんのりきゅう)など文化人をそばに置くことを好み、幽斎もまた、武将ながらも当代きっての文化人として名を馳せていたからです。おそらく、幼いころから在京で、公家文化に触れる機会も多かった幽斎は、和歌や茶道、蹴鞠などあらゆる方面で造詣を深めていたのでしょう。その教養は当代一で、剣術や弓術にまで優れていたというのですから、まさにオールマイティーな人物だったわけです。
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500の兵で1万5千の敵を相手に籠城戦
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起きると、幽斎は再び従う相手を変えました。徳川家康です。
石田三成が挙兵した時、息子の忠興は家康に従い、上杉景勝(うえすぎかげかつ)の征伐のために関東にいました。そのため、幽斎のそばにいたのは三男の幸隆(ゆきたか)だけだったのです。
そして、西軍の1万5千の軍勢は、幽斎がこもる田辺城(京都府舞鶴市)を取り囲みました。対する幽斎らの兵の数は、たったの500。これでは勝ち目などありません。
しかし、幽斎らの士気は高く、なんと2ヶ月もの間籠城戦を続けたのでした。
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