室町時代戦国時代日本の歴史

時の権力者すべてに仕えた「細川幽斎」の人生をわかりやすく解説

幽斎のみが知る秘伝のおかげで助かった?

西軍の武将の中には、幽斎に和歌の指導を受けるなどした者が少なくありませんでした。しかも、公家や皇族、ついには天皇までもが乗り出し、天皇の命令によって講和が成立することとなったのです。

なぜ天皇まで出てきたのかというと、それは幽斎の教養が理由でした。

幽斎は、古今和歌集の解釈である「古今伝授」を公家の二条家から受けており、これを知る者は当時幽斎しかいなかったのです。幽斎を失ってしまっては、古今伝授も失われてしまうと、公家や天皇が真っ青になったというわけなんですよ。

彼のみが知る秘伝のために助かったとは、やはり教養というものも十分に身を助けるものだったのですね。

火事の時さえ和歌を詠む余裕

幽斎が和歌に通じ、飄々とした人物であったことがうかがえるエピソードがあります。

隣の屋敷が火事になり、折からの強風で今にもこちらに燃え移りそうになったことがありました。しかし幽斎は寝ており、やっと起きてきたと思ったら、手水鉢で顔を洗おうとする始末。

そこで家臣が「塀にも火が燃え移りました!」と急かすと、幽斎は口を開きました。

「ほのぼのと かき(垣)のもとまで 焼くるとも 歌さへ読めば 人まると知れ」

この歌の中には、いにしえの歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ/人丸/ひとまる)の名が織り込まれており、垣は塀のことですから、まさに今の状況をさらりと詠んでみせたわけです。

そんなこと言っている場合ではないんですが、なんと、この歌を詠んだ途端に風向きが変わり、火が弱まったそうで、以後人々はこの歌を火除けとして家に貼っておいたと伝わっています。

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、東軍に参加した息子の忠興は豊前小倉藩(福岡県北九州市付近)39万9千石という大きな領地を授けられ、幽斎は京都で隠居し、趣味に生きる悠々自適の老後を送りました。そして慶長15(1610)年、77歳で亡くなりました。

教養の深さに助けられた半生

image by PIXTA / 56622008

幽斎は室町幕府の幕臣でありながら、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と天下の三英傑にも仕えました。武将としても優秀でなければ生き残れませんでしたが、先を読む目と、京都で培われた教養によって戦国時代を生き抜いてきたと言ってもいいでしょう。千利休は切腹させられてしまいましたが、幽斎がそうならなかったのは、時代を渡る術を心得ていたからだと思います。

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