明智光秀を通じて織田信長の協力を取り付け、義昭の上洛を実現させる
兄・義輝の跡を継ぐため、足利将軍家の正統な後継者として名乗りをあげた義昭ですが、兄を暗殺した三好三人衆が擁立した足利義栄(あしかがよしひで)に先を越されてしまい、頼りにしていた朝倉義景の動きは鈍く、これでは義昭擁立も夢のまた夢となってしまいそうでした。
しかしここで、幽斎と義昭は朝倉家臣だった明智光秀と知り合います。光秀を通じて織田信長にも紹介してもらい、信長の援助を取り付けることに成功した義昭と幽斎は、永禄11(1568)年についに上洛を果たし、義昭は室町幕府15代将軍に就任したのでした。
義輝が殺され、正統な足利将軍家の血筋に将軍位を取り戻すことは、家臣である幽斎にとっても悲願だったはず。きっと、幽斎はこの時感慨無量だったと推測します。
またこの直後、幽斎は三好三人衆のひとりに奪われていたかつての城・勝竜寺城(しょうりゅうじじょう/京都府長岡京市)を奪還することにも成功しました。
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足利義昭から織田信長へと主を変える
将軍・足利義昭と織田信長の関係は、当初は蜜月に近いものでした。しかし、両者の目的の微妙な違いがやがて対立へと発展することになります。
この時、幽斎は自身の身の振り方をどうすべきか考えたかもしれません。どう見ても、天下は信長のものになるのが明らかで、将軍とはいえ、義昭が信長以上の力を持つとは考えにくかったはずです。また、義昭はひそかに全国の武将たちに信長包囲網の形成を呼びかけるなどしており、信長との対立は決定的なものとなってしまいました。
ここで幽斎は、信長に従うことを決断します。信長に送った手紙の中には、義昭が信長に対して反抗の意思があるということが書かれていたそうです。
そして幽斎はこの時、「長岡藤孝」と名を改め、義昭と決別したのでした。
兄・三淵藤英との決別
義昭との決別は、同時に、義昭の側近である兄・三淵藤英と袂を分かつことでした。忠実な幕臣である藤英は、当然、弟の裏切りに激怒し、一時は勝竜寺城を襲おうとまで計画し、義昭に加担して挙兵します。ただ、義昭の軍勢が信長にかなうわけもなく、敗れた義昭は追放されてしまいました。そして藤英はやむなく信長に従うことにしますが、突然、領地を召し上げられた上に自害させられてしまったのです。
信長の恐ろしさを、きっと幽斎は痛感したに違いありません。信長に反抗するということは、つまり兄のような末路を辿るようになるということを。
自分の息子と光秀の娘が結婚する
とはいえ、信長に従うと決めた以上、幽斎は家臣として忠実に信長のために戦いました。明智光秀の与力(よりき/力の強い武将に加勢する役割)となった幽斎は、越前一向一揆や石山合戦、紀州征伐などに従軍し、光秀と共に信貴山城(しぎさんじょう)の戦いで松永久秀を滅ぼすなど、大きな功績を挙げていったのです。
そして、天正6(1578)年、信長のすすめにより、幽斎の息子・忠興(ただおき)と、光秀の娘・玉(珠、のちのガラシャ)の婚姻が成立し、幽斎と光秀はいっそう結び付きを強めることとなりました。
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明智光秀の謀反に加担せず、誘いを断る
天正10(1582)年、明智光秀が突然謀反を起こし、本能寺で信長を襲撃し、信長は自害してしまいます。
戦国史最大の謎は、幽斎にとっても寝耳に水の出来事だったことでしょう。そして、光秀は姻戚となっていた幽斎と忠興に、自分に加勢してくれるように要請してきたのでした。
この誘いに応じるかどうか、幽斎は迷いに迷ったと思います。光秀は姻戚である上に、与力の相手であるため上役でもありました。しかし、本当に光秀に加担して勝利できるのだろうか…逡巡したあげく、幽斎は光秀の誘いを断り、出家して家督を忠興に譲り、静観を決めたのです。この時、正式に「幽斎」と号するようになりました。
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