ヨーロッパの歴史

絶対的な力を持っていた教皇が幽閉された「アナーニ事件」を元予備校講師が解説

ローマ教皇とフランス王の対立

フランドル諸都市との戦争で戦費が必要になったフィリップ4世は、それまで課税をしてこなかった教会領にも課税しようとします。ボニファティウス8世はフィリップ4世が教会領に勝手に課税したとして、課税を禁止しました。一方、フィリップ4世はローマ教会に対する献金を停止して対抗します。

1301年、フィリップ4世は再びフランス国内の教会領に課税しようと試みました。ボニファティウス8世は「教皇回勅」を発してフランス王に課税を止めるよう命じます。

フィリップ4世はフランスの身分制議会である三部会を招集。フランスの国益を訴えて、国内世論の支持を取り付けました。

ボニファティウス8世もフィリップ4世も、互いに譲るつもりはなく、両者の激突は時間の問題と考えられました。

教皇のアナーニ幽閉とボニファティウス8世の憤死

1303年、フランス王と教皇の対立が激しくなる中、フランス王の家臣の一人であるギョーム=ド=ノガレは、ローマ教皇と対立していたローマの貴族コロンナ家と共謀してローマ近郊のアナーニに滞在していたボニファティウス8世を襲撃します。

ボニファティウス8世を一室に軟禁し、教皇の象徴である三重冠と僧衣をはぎ取りました。

そして、ノガレらはボニファティウス8世に退位を迫ります。しかし、ボニファティウス8世は断固として退位を拒否しました。

ボニファティウス8世の軟禁は3日に及びましたが、騒ぎを聞きつけたアナーニ市民によって教皇は救出されます。

ボニファティウス8世はローマにもどることができましたが、軟禁されたことがよほど屈辱だったのか、1か月後に怒りのあまり憤死してしまいました。教皇の軟禁から教皇の憤死までの一連の事件をアナーニ事件といいます。

アナーニ事件の結果とその後

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アナーニ事件の直後、教皇ボニファティウス8世は怒りのあまり憤死してしまいました。新教皇となったベネディクト11世は翌年に急死してしまいます。11か月もの空位ののち、教皇に選ばれたのはフランス人のクレメンス5世。クレメンス5世は教皇庁をフランスのアヴィニョンに移転させてしまいます。その後、ローマ教会は教会大分裂の時代を迎えました。アナーニ事件後、フィリップ4世は辣腕を振るいます。しかし、フィリップ4世の死後、カペー朝は断絶しヴァロワ朝にとってかわられました。

教皇庁のアヴィニョン移転

アナーニ事件後、フィリップ4世はローマ教皇庁への圧力を強めます。1305年、フランス人のクレメンス5がローマ教皇となると、フィリップ4世はクレメンス5世に働きかけ、教皇庁をフランスのアヴィニョンに移転させてしまいました。

以後、70年にわたって、教皇庁はローマではなくアヴィニョンに置かれます。人々はフィリップ4世が教皇庁を強引に移転させたことを、旧約聖書に描かれるユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」といいました。

14世紀後半、ローマでは教皇庁のローマ帰還を望む声が高まります。神聖ローマ皇帝カール4も教皇庁のローマ帰還を支援しました。1377年、教皇グレゴリウス11世は教皇庁をローマに戻すことを決定。ようやく、ローマに教皇庁が戻りました。

教会大分裂

クレメンス11世の決定に対し、フランス系の枢機卿たちは強く反発します。1378年、クレメンス5世がローマで死去すると、次の教皇を選ぶ枢機卿会議(コンクラーベ)が行われました。

枢機卿会議ではフランス系とそのほかの枢機卿が対立したため、なかなか、次の教皇を選出することができません。ようやく選出されたのはイタリア出身のウルバヌス6です。

ところが、ウルバヌス6世が厳格な性格だったことから、フランス系の枢機卿はローマを脱出。アヴィニョンで枢機卿会議を開催し、クレメンス7世を選出しました。これにより、ローマ教皇庁はローマとアヴィニョンの2つに分裂してしまいます。

後世、教会がの分裂を招いたこの出来事を教会大分裂(大シスマ)といいました。教会大分裂は1378年から1417年まで続きます。

フィリップ4世の死とカペー朝の断絶

フィリップ4世の教会勢力に対する圧力は、教皇庁の移転にとどまりませんでした。1307年、フィリップ4世はテンプル騎士団を弾圧します。弾圧した理由はテンプル騎士団がため込んでいた巨額の財産でした。

フィリップ4世はテンプル騎士団の会員を一斉に逮捕します。捕らえられた騎士団員は激しい拷問にかけられ、異端の罪を着せられました。テンプル騎士団を解散させたフィリップ4世はテンプル騎士団の資産を事実上、フランス王の財産とすることに成功します。

1314年、テンプル騎士団長のジャック=ド=モレは火あぶりにかけられたとき、フィリップ4世と教皇クレメンス5世を呪うことばを発したとも伝えられますね。よほど無念だったのでしょう。

その後、モレの呪いにかかったかのように、フィリップ4世はモレを火あぶりにしたのと同じ年に脳梗塞でなくなりました。フィリップ4世の子供たちはいずれも短命で、1328年にカペー朝は断絶。フランスの王統はヴァロワ家のものとなりました。

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