フランスブルボン朝ヨーロッパの歴史

ルイ13世の宰相「リシュリュー」絶対王政確立に活躍した枢機卿を元予備校講師がわかりやすく解説

時は17世紀中ごろ、フランスでは国王ルイ13世の宰相であるリシュリューが権勢を振るっていました。「三銃士」では悪役とされるリシュリューですが、フランス絶対王政の基礎を固め、フランスの国力を高めた政治家でもあります。また、ドイツで起きていた三十年戦争に介入することで、フランスの国際的地位を高めました。今回は、フランスの宰相リシュリューについて、元予備校講師がわかりやすく解説します。

リシュリューの出世

image by PIXTA / 20973290

フランス西部の小貴族の三男として生まれたリシュリューは、聖職者の道を歩みます。リュソン司教に叙せられたリシュリューは、フランスの身分制議会である三部会での発言で注目を集めました。リシュリューは時の権力者である母后マリ=ド=メディシスの引き立てにより政界に進出。一度は失脚しますが、ルイ13世によって高位聖職者である枢機卿に任命されます。

生い立ち~司祭叙階

1585年、アルマン=ジャン=デュ=プレシー=ド=リシュリューは下級貴族の三男としてパリに生まれました。父はアンリ3世に仕える軍人でしたが、リシュリューが5歳のときに戦死します。

このとき、一家は大黒柱を失ってしまいましたが、国王から恩給が給付されたことで経済的な困窮は免れました。次の国王アンリ4世は、リシュリュー家にフランス西部のリュソン司教職を与えます。

当初、リシュリュー家では次男が司教職に就くはずでしたが、次男は修道士を目指していたため、司教になることを拒否。かわって、司教になったのが3男のアルマンでした。

1607年、アルマン(以後、リシュリュー)はローマに赴き、ローマ教皇から正式に司祭に叙せられます。司教区に赴任したリシュリューは、プロテスタント(主にユグノー)の力が強いリュソンで、教会改革を実行しました。

出世の糸口となった三部会出席

リュソンの司教となったリシュリューは、フランスの議会である三部会に出席する権利を得ます。三部会とは、第一身分である聖職者、第二身分である貴族、第三身分である平民から代表者を選出した身分制議会のこと。リシュリューは聖職者なので第一身分の一員として三部会に参加しました。

リシュリューは1545年のトリエント公会議で決定した内容をフランスでも実行すべきだとして論陣を張ります。第一身分の議員達は、請願書などを読み上げる人物としてリシュリューを選びました。

このときのリシュリューの弁舌が、ルイ13の摂政となっていた母后マリ=ド=メディシスらの目に留まり、リシュリューはルイ13世の后付きの司祭として宮廷に仕える事になります。

リシュリューの失脚と復活

リシュリューが宮廷に仕えていたころ、宮廷の最高権力者は国王ルイ13世の母后であるマリ=ド=メディシスでした。マリはイタリアの名門、メディチ家出身のイタリア人です。

彼女はアンリ4世時代の宰相を罷免すると、自分の意のままに動いてくれるコンチーニなる人物を大臣として政治を行わせました。リシュリューはコンチーニの下で出世します。

1617年、コンチーニがルイ13世とリュイヌ公によって暗殺され、マリ=ド=メディシスが権力を失うと、リシュリューも失脚してしまいました。

1619年、マリ=ド=メディシスが幽閉先を脱出し、反乱軍に擁立されると、国王はリシュリューを登用。リシュリューをマリの説得に当たらせました。

リシュリューはマリの説得に成功し、反乱軍は解散します。この功績により、リシュリューはルイ13世に再登用され、高位聖職者である枢機卿に任命されました。

フランス王国宰相としてのリシュリュー

image by PIXTA / 26253444

リュイヌ公の死後、リシュリューは急速に権力を掌握します。リシュリューはフランス国内の宗教問題を解決すべく、新教徒であるユグノーを討伐し無力化しました。その一方、リシュリューは対立するようになったマリ=ド=メディシスを排除し権力を固めます。強大化したリシュリューは、後に書かれる小説「三銃士」で悪役の宰相として描かれました。

リシュリューが仕えたルイ13世

ルイ13は1601年、アンリ4世の子としてフォンテンブロー宮殿で生まれました。父のアンリ4世はフランス国内の宗教的対立を抑えるため、ナントの王令を出したことで知られます。

1610年、アンリ4世が狂信的なカトリック教徒によって暗殺されたため、ルイ13世はわずか8歳で国王となりました。幼いルイ13世にかわって摂政として政治を行ったのは母のマリ=ド=メディシスです。

ルイ13世は成人すると母を退け、自ら政治を行おうとしました。はじめ、ルイ13世の側近として活躍したのはリュイヌ公です。

しかし、リュイヌ公の死後、国王の信任を得て権力を掌握したのはリシュリューでした。こうして、リシュリューはルイ13世の宰相として国政に辣腕を振るうこととなります。

国内の城塞破壊とユグノー討伐

リシュリューは宰相となると、王権を強めるため行政制度を整備し、貴族達の力を抑圧しようとしました。最も象徴的なのは、国防用を除く全ての城塞を破壊させたことです。

貴族達は国王と対立すると居城に立てこもって国王に反抗するのが常でした。そのことを熟知していたリシュリューは貴族達の抵抗拠点である城塞を破壊させます。

また、宗教面では王家が信仰し、フランスで主流派となっていたカトリックを擁護。ユグノーとよばれた新教徒を弾圧しました。1627年、フランス王の軍勢は西部の港町=ロシェルの攻略に取り掛かります。

これに対し、イギリス王チャールズ1世はユグノーを支援するためフランスに宣戦布告。海上からラ=ロシェルを支援させました。

ラ=ロシェル包囲戦は1年余り続きましたが、フランス軍の勝利に終わります。抵抗拠点を失ったユグノーは急速に弱体化。ルイ13世の王権が高まりました。

次のページを読む
1 2 3
Share: