ペリー来航と日米和親条約
1840年代以降、積極的に日本にアプローチしてきたのはアメリカでした。アメリカは捕鯨船の補給基地や対清貿易での補給基地として日本の港を使いたいと考えたからです。
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーは、日本に来航し幕府にアメリカ大統領フィルモアの国書を提出。幕府に対して開国を求めました。幕府は翌年の回答を約束します。
1854年1月、ペリーは再び浦賀に来航。最新鋭の蒸気戦艦を含む強力な艦隊で日本に開国を迫りました。幕府はペリーの要求を拒否するのは不可能と判断。同年、日米和親条約を締結しました。
この条約で下田と箱館を開港することが正式に定められました。日本の鎖国は、ついに破れることになります。
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開国後、とことん日本好きだったシーボルトは再来日していた
1858年、日蘭修好通商条約が締結されると、シーボルトに対して出されていた追放令は解除されました。1861年には幕府の外交顧問として採用されます。シーボルトはこの時も多くのものを日本で収集しオランダに送りました。国禁の地図も、日本大好きなシーボルトにとっては大事な「日本コレクション」の一つだったのかもしれませんが、19世紀前半の緊迫した国際情勢のため、大ごとになってしまったのでしょうね。