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マウリヤ朝の最盛期を築いた「アショーカ王」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

1947年、イギリスから独立したインド連邦は、新しい国旗を制定しました。サフラン色、白、緑の横三色の国旗で、中央に車輪のようなものが描かれたデザインの国旗です。サフラン色はヒンドゥー教、緑はイスラム教、白は他の宗教を表すとされました。中央に描かれた車輪のようなものはアショーカ王のチャクラが描かれます。現代インド国旗にも足跡を残すアショーカ王(阿育王)とはどのような人物なのでしょうか。今回は、アショーカ王とマウリヤ朝の歴史について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

マウリヤ朝の成立

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今からおよそ4000年前、インダス川流域にインダス文明が発達しました。紀元前1500年から紀元前1000年ころにかけて、アーリヤ人が北西インドから侵入し北インドに定着します。紀元前7世紀から紀元前5世紀にかけて、北インドにはコーサラ国やマガダ国などの小国が分立しました。ブッダが仏教を創始したのは北インドが小国分立だった時代です。紀元前4世紀末、チャンドラグプタが北インドを統一しマウリヤ朝を成立させました。

インダス文明とヴェーダ時代

紀元前2300年頃、インドの北西部を流れるインダス川の流域でハラッパーモエンジョ=ダロなど60以上の都市国家が形成されました。この都市群をインダス文明と呼びます。インダス文明では青銅器やインダス文字が使用され、計画的な都市設計が行われていました。

紀元前2000年頃、アーリヤ人が北西インドから侵入し、インダス川流域からガンジス川流域にかけて定着します。アーリヤ人が各地に浸透していった時代をヴェーダ時代といいした。

ヴェーダとは、アーリヤ人の聖典のことです。この時代に、カースト制度が生まれたと考えられます。カースト制度は人々を司祭階級のバラモン、武人階級のクシャトリヤ、庶民階級のヴァイシャ、最下層のシュードラの4階級に区分する制度のことですね。ヴェーダはインド社会の根幹をなしました。

小国の分立

紀元前7世紀から紀元前5世紀にかけて、北インドを中心に各地で都市国家が形成されます。古代インドでは農業だけではなく、商工業が発達。徐々に貧富の格差が広がっていました。

紀元前6世紀ころ、ガンジス川流域に有力な国が生まれます。一つはガンジス川中流域に成立したコーサラ国。コーサラ国はシャカの出身国である釈迦族の国など周辺の小国家を次々と併合していきました。

もう一つの有力国家はガンジス川下流域に成立したマガダ国。紀元前5世紀の初め、ビンビサーラ王の時代に強大化し、ガンジス川流域で最強の国に成長します。次のアジャータシャトル王の時代にはライバルであるコーサラ国を下し、北インドの覇権を握りました

マガダ国の首都として建設されたパータリプトラは交通の要衝で、マウリヤ朝が成立してからも都とされました。

仏教の創始

北インドでコーサラ国やマガダ国が覇権を争っていたころ、ガンジス川流域の小国でガウタマ=シッダールタが生まれました。ガウタマは小国の王子であり、クシャトリヤ階級に属する人物です。

ガウタマはバラモン教やカースト制度を否定し、「生・老・病・死」などの人生の苦を解決するための仏教を創始しました。ガウタマは、人生の苦を解決するには、八つの正しい行動(八正道)を実践しなければならないと説きます。

悟りを開き、新しい教えを説いたガウタマは悟りを開いた人という意味で「ブッダ」と呼ばれるようになりました。ブッダはマガダ国を中心に仏の教えを説きます

ブッダの教えを聞いたクシャトリヤやヴァイシャが入信し、サンガとよばれる教団組織を形成しました。ブッダの死後、彼の教えはインド各地に広まります。

マウリヤ朝の成立

紀元前4世紀中ごろ、マガダ国の王朝となったナンダ朝は強大な軍備を備え、北インドで覇権を握り続けます。紀元前4世紀末、アケメネス朝ペルシアを滅ぼしたアレクサンドロス大王がインダス川流域に進出。ナンダ朝はアレクサンドロス大王の進出をかろうじて食い止めますが国力が衰退してしまいました。

紀元前317年、アレクサンドロスが去った西北インドで勢力を広げたチャンドラグプタが衰退したナンダ朝を滅ぼし、マウリヤ朝マガダ国を建国します。

マウリヤ朝の領土は、北はヒマラヤ山麓、南はデカン高原南部、東はベンガル地方、西はインダス川流域まで広がる広大なもので、インド初の本格的統一王朝でした。

マウリヤ朝は紀元前305年のセレウコス朝シリアとの戦いにも勝利し、統一王朝としての基盤を固めます。

アショーカ王の政治

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マウリヤ朝の最盛期を築き上げたのがアショーカ王でした。アショーカ王はデカン高原南部のカリンガ国を征服し、マウリヤ朝の支配する領土は最大となります。相次ぐ戦いや内紛で多くの人々の命を奪ったアショーカ王は、自らの行為を悔い仏教に帰依しました。仏教に帰依したアショーカ王は仏典結集やスリランカ布教などを積極的に行います。

アショーカ王の即位

紀元前268年、マウリヤ朝の創始者であるチャンドラグプタの孫であったアショーカ王がマウリヤ朝第3代国王として即位します。アショーカ王については、仏典に詳しく記述されているものの、考古学やその他の史料が少ないため、実像が分かりにくいともいわれていますね。

正妻の子としてアショーカは生まれますが、父親であるビンドゥサーラ王とは対立していたと伝えられます。即位前、アショーカは父王の命令でタキシラで起きた反乱の鎮圧を命じられますが、そのとき、武器も与えられず非常に不利な状態で派遣されたともいわれますね。

即位に際して、ライバルとなる兄弟王子たちをことごとく殺害し、従わない大臣たちを誅殺したとの伝説があることから、即位時に何らかの王位継承争いがあったのかもしれません。

しかし、残されたわずかの記録をたどると、ビンドゥサーラ王の他の王子が総督となっていたことがわかりました。このことから、仏典に書かれたアショーカ王の悪行からは、仏教改宗前のアショーカの残虐な性格や暴虐ぶりをことさら強調しようという仏教教団の意図がうかがえます。

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