日本の歴史江戸時代

シーボルトが捕らえられた「シーボルト事件」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

シーボルトの来日と鳴滝塾の開校

1796年、フィリップ=フランツ=フォン=シーボルトはバイエルン近郊のヴュルツブルクに生まれました。1820年、大学を卒業したシーボルトは医師の国家試験に合格します。

1822年、東洋学を学びたいと考えたシーボルトは、長崎に商館を持つオランダに行き、現在のインドネシアにあたるオランダ領東インドの陸軍病院医師となりました。

1823年8月、シーボルトは長崎商館の医師として出島に入ります。1824年8月、長崎郊外に蘭学塾・診療所である鳴滝塾を開きました。鳴滝塾ではのちの蛮社の獄で投獄される高野長英も門人として学びます。

1825年、シーボルトは出島内に薬草園を作りました。1826年にはオランダ商館長の江戸出府に随行し、将軍家斉に謁見します。シーボルトは道中の旅を利用して、各地の地理や植生などを調査しました。

江戸出府と高橋景保との交流

江戸出府の際、シーボルトは多くの学者・著名人と交流を深めます。江戸城奥医師の桂川甫賢、蘭学者の宇田川榕菴、元薩摩藩主で蘭学好きで知られた島津重豪、蝦夷地探検家の最上徳内などそうそうたる顔ぶれと面識を持ちました。

なかでも、幕府天文方として天文学や地図の研究を行っていた高橋景保とは特に修好を深めます。幕府天文方は、暦の作成や地図の作成を行っていた部署で、幕府天文方のトップを務めた高橋至時(景保の父)は伊能忠敬の師でした。

シーボルトは、高橋に当時最先端の知識でかかれたクルーゼンシュテルンの世界地図を贈ります。一方、高橋は伊能忠敬が測量し、高橋が完成させた伊能図をシーボルトに贈りました。双方が持っていた最新の地図を交換したのですが、これがのちに二人に災いをもたらしてしまいます。

伊能図持ち出しの発覚

シーボルトは日本に滞在中、日本で収集した動植物の標本をオランダに送っていました。しかし、北方探検で間宮林蔵が手に入れた押し葉標本は手に入れることができませんでした。

シーボルトは間宮林蔵に手紙を書き、標本を譲ってほしいと交渉します。しかし、間宮は外国人との私的な贈答は鎖国令など幕府の禁令に触れる恐れがあると考え、シーボルトの手紙を開封せず、幕府に届け出ました。

この手紙を見た幕府は、シーボルトが日本人と様々な品物を交換で手に入れているのではないかと考え調査。その結果、高橋景保が伊能図を贈ったことが発覚したようです。

鎖国政策をとっていた幕府にとって詳細な日本地図である伊能図は国外持ち出しのご禁制の品。それを、幕府の科学技術を扱う天文方の人間が外国人に贈っていたという事実は、幕府にとって衝撃でした。幕府は高橋ら関係者を調査。取り調べ中獄死した獄死した高橋は、遺体のまま斬首。シーボルトは国外追放処分となりました

激動する東アジア

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シーボルトが追放された後も、日本を取り巻く国際情勢は緊張の度合いを高めます。異国船打払令を実行し、モリソン号を追い返した幕府に対し、蘭学者は厳しく批判。幕政批判をした彼らは幕府によって処断されました。1840年、イギリスがアヘン戦争で清国に勝利すると、幕府は異国船打払令を廃止し、薪水給与令を出します。その後、ペリーが来航することで幕府が守ろうとした鎖国体制は崩壊しました。

モリソン号事件と蛮社の獄

1837年、日本人漂流者を載せたアメリカの商船モリソン号が鹿児島湾に姿を現しました。薩摩藩は異国船打払令に従い、モリソン号を砲撃します。モリソン号は浦賀沖にも現れましたが、浦賀奉行が砲撃し追い返しました。この事件をモリソン号事件といいます。

漂流民を送り届けようとしたモリソン号を砲撃したことに対し、蘭学者たちを中心に幕府を非難する声が上がりました。蘭学者たちは、むやみやたらと外国船を砲撃すると、かえって、外国からの報復攻撃を招くとして幕府の対応を批判します。

それに対し、幕府は幕政を批判したとして『慎機論』の著者である渡辺崋山や、『戊戌夢物語』で幕府を批判した高野長英らを逮捕しました。この蘭学者たちを弾圧した事件を蛮社の獄といいます。

アヘン戦争と薪水給与令

イギリスは植民地であるインドで麻薬のアヘンを作らせていました。イギリスはアヘンを清国に販売することで、対清貿易の赤字を補填しようとします。麻薬を持ち込ませたくない清国は、欽差大臣の林則徐を広州に派遣し、アヘンの取り締まりをさせました。

林則徐はイギリス商人が持ち込んでいたアヘンを押収。使用できないようにして、海中に投棄しました。イギリスは商品であるアヘンを不当に没収され損害を被ったとして投棄されたアヘンの賠償を清国に要求します。当然、清国は賠償を拒否しました。

すると、イギリスは議会の承認を取り付けたうえで、清国に艦隊を派遣。アヘン戦争が始まりました。戦争がはじまると、イギリス軍が清国軍を圧倒。1842年に南京条約が結ばれ清国は無理やり開国させられます。ことの顛末を知った幕府は異国船打払令を廃止し、薪水給与令をだしました。海防論者たちが懸念した欧米の侵略が現実のものとなります。

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