南北朝時代室町時代日本の歴史鎌倉時代

建武の新政を打ち立てた「後醍醐天皇」を元予備校講師がわかりやすく解説

建武の新政の始まり

鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は京都に戻ります。そして、幕府が擁立した光厳天皇を廃して、自分の退位を取り消させました。また、後醍醐天皇は年号を建武と改めました。このため、鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇の政治を建武の新政といいます。

後醍醐天皇は延喜・天暦の治を模範とする天皇中心の国づくりを目指しました。天皇親政を実現するため、幕府をはじめ摂政・関白を廃止します。

また、土地に関する争いを担当する雑訴決断所を設置。その採決には後醍醐天皇の綸旨が必要であることなどを定めます。

武士の統率は武者所のトップに新田義貞を任じて担当させました。さらに、自分の子達を地方に派遣。陸奥将軍府鎌倉将軍府を設置して地方統治にあたらせます。

建武の新政に対する不満

後醍醐天皇は、「朕が新儀は、未来の先例たるべし」として過去にとらわれない政治を目指しました。そのため、平安時代以来の慣行である官位相当の制を無視し、人材を登用します。

また、基本的には鎌倉幕府のあり方や裁決には否定的だったため、幕府が行った決定を覆すことも珍しくありません。さらに、鎌倉幕府打倒の恩賞についても、不満を残す結果となってしまいました。

建武の新政の混乱ぶりや当時の世相を皮肉った「二条河原落書」には、近頃都にはやるものとして、夜討ち、強盗、偽綸旨などと列挙されてしまいます。

これでは、鎌倉幕府のほうがまだマシだった、と思われても仕方がありません。実際、不満を持つ人々は鎌倉幕府打倒の立役者である足利尊氏のもとに集まりつつありました

 

中先代の乱と尊氏の挙兵

1335年、北条高時の遺児である時行が挙兵し鎌倉を占拠しました。これを中先代の乱といいます。時行の挙兵により関東は混乱状態となりました。

足利尊氏は後醍醐天皇に討伐軍の司令官に任じて欲しいと願います。しかし、足利尊氏の強大化を恐れた後醍醐天皇は尊氏の願いを却下しました。すると、尊氏は天皇の許可を待たずに鎌倉に向けて進発。北条時行を打ち破り、中先代の乱を平定しました。

しかも、尊氏は後醍醐天皇の許可なく、戦いの恩賞を決定してしまいます。怒った後醍醐天皇は新田義貞を派遣して尊氏を討伐させますが、箱根で尊氏に敗れました。

後醍醐天皇との戦いが避けられないと判断した尊氏は、ついに後醍醐天皇に反旗を翻し、京都に向けて進撃を開始します。

南北朝の争乱と後醍醐天皇の死

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建武の新政に対する不満を結集した足利尊氏は畿内で朝廷軍と対陣しました。尊氏は、一度は新田義貞、北畠顕家、楠木正成らに敗北しますが、京都で軍勢を整えて朝廷軍に勝利します。尊氏軍に囲まれた後醍醐天皇は三種の神器を尊氏に渡しました。尊氏によって幽閉された後醍醐天皇は幽閉先から逃れ奈良の吉野に脱出し南朝を立てます。以後、60年に及ぶ南北朝時代が始まりました。

足利尊氏との戦い

箱根で新田軍を破った尊氏は軍を京都に進めます。対する朝廷軍は新田義貞、北畠顕家、楠木正成らが尊氏軍を迎え撃ちました。戦いは朝廷軍が勝利。尊氏は九州に向けて敗走します。

朝廷軍は尊氏を追撃すべく西に進軍しますが、播磨の豪族赤松氏が朝廷軍に抵抗したため、長期間足止めされました。その間に尊氏は九州で体勢を立て直すことに成功します。九州で朝廷側の軍に勝利した尊氏軍は、勝利の勢いに乗って再び京を目指して進軍しました。

このとき、楠木正成は後醍醐天皇に比叡山に避難するよう進言します。ところが、後醍醐天皇の側近の一人が、尊氏を恐れて非難するなどするべきでないとして楠木正成の策に反対。後醍醐天皇も側近のいうことに従ってしまいました。

後醍醐天皇、吉野に逃れ南朝を開く

1336年、楠木正成は少数の部下とともに湊川で尊氏軍を迎撃します。開けた地形で尊氏の大軍と向き合った楠木正成は劣勢を挽回できず敗死してしまいました。

湊川の戦で勝利した尊氏軍は京都になだれ込み、後醍醐天皇の居場所を包囲。後醍醐天皇は三種の神器を渡し、尊氏軍に降伏しました。

その後、尊氏は持明院統の光明天皇を擁立します。1336年、天皇を廃された後醍醐は幽閉先の花山院から脱出。奈良県の吉野に逃れました。後醍醐天皇は尊氏に渡した三種の神器は贋物であり、自分こそが正統の天皇だと主張します。

ここに、京都の光明天皇と吉野の後醍醐天皇が並立する事態となりました。光明天皇の朝廷を北朝、後醍醐天皇の朝廷を南朝とよんだことから、南北朝時代と言います。

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