後醍醐天皇の皇子、全国に飛ぶ
南北朝の争いは、尊氏軍を中心とする北朝方が優位でした。劣勢を挽回すべく、後醍醐天皇は自分の息子たちを全国各地に派遣します。尊良親王と恒良親王は新田義貞とともに北陸に下りました。
懐良親王は征西将軍として九州に下ります。懐良親王は肥後の菊池氏や阿蘇氏を味方につけ九州で勢力を拡大。一時は九州の中心である大宰府を攻め落とし、足利軍を率いた一色範氏を九州から追い出しました。
中国を統一した明は懐良親王を日本国王に封じ、倭寇を取り締まるよう求めます。これは、明が懐良親王を日本の支配者だと判断したからでしょう。懐良親王の優勢は、今川了俊が九州探題として下向し大宰府を奪い返すまで続きました。
もう一人の皇子である宗良親王は信濃を拠点として北朝勢力と戦いを続けます。後醍醐天皇も皇子たちも、南朝の勢力を回復するべく奮闘しましたが、北朝の優位を覆すところまではいきませんでした。
後醍醐天皇の死と天龍寺
1339年、後醍醐天皇は吉野の御所で病に倒れます。病が篤くなる中、8月15日に義良親王に位を譲りました。翌16日、後醍醐天皇は朝敵討滅と京都奪還の遺言を残し吉野金輪王寺で亡くなりました。享年52。後醍醐天皇の崩御を聞いた足利尊氏は天皇の菩提を弔うため天龍寺を建立します。尊氏は天龍寺の建立資金調達のため、元に天龍寺船という貿易船を送りました。そうまでして天龍寺を立てた尊氏にとって、後醍醐天皇は重要な人物だったのでしょうね。