中国の歴史

清王朝最後の皇帝となった「溥儀」ラストエンペラーの生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

満州事変

1926年から1928年にかけて、国民革命軍を率いた蒋介石は中国南部の広州から北上。各地の軍閥を平定しつつ、北京を目指す北伐を行いました。

この時、北京を支配していた奉天軍閥の張作霖は蒋介石軍と戦って敗れます。張作霖は本拠地の満州に戻って体勢を立て直そうとしましたが、帰路に日本の関東軍によって謀殺されました。奉天軍閥は息子の張学良が引き継がれ、張学良は蒋介石の支配下にはいることを選びます。

1931年、奉天郊外にある柳条湖で南満州鉄道が破壊されました。南満州鉄道の警備にあたっていた関東軍は、爆破は中国軍の仕業だと断定して満州各地を制圧。この事件を満州事変といいます。1932年、満州を占領した関東軍は満州国の成立を宣言溥儀を満州国執政として迎えました

満州国皇帝となった溥儀

1932年、溥儀を執政とする満州国の建国が宣言されました。満州国は領域内に住む満州人、日本人、漢人、蒙古人、朝鮮人が宥和する「五族協和」を方針として掲げます。首都は長春(新京)に置かれました。

溥儀は、皇帝としての即位を熱望していたため、執政の称号に抵抗しましたが、日本は時期尚早だとして皇帝の称号に反対。溥儀は止む無く執政と名乗ります。

建国宣言直後、満州国は日本との間で日満議定書を調印。議定書では、関東軍が満州国官吏の任免権や国政に関する関与を行う権限を持つことなどが盛り込まれます。関東軍の許可なしに何一つできない仕組みだったことから、満州国は日本の、関東軍の傀儡国家であるといわれても仕方ない実態の国でした。

それでも、溥儀は執政、皇帝の称号にこだわります。満州国建国宣言から2年後の1934年、溥儀は念願だった皇帝として即位しました。

日本の敗戦と戦後の溥儀

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第二次世界大戦末期、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、満州国に攻め込みます。溥儀は脱出に失敗し、ソ連軍の捕虜となりました。1946年に東京裁判が始まると、溥儀は商人として出廷します。1950年、溥儀の身柄は中華人民共和国に移され、政治犯として「再教育」を受けました。

ソ連の侵攻とソ連抑留

1937年、日中戦争がはじまりました。満州国軍は自国の防衛に専念し、日中戦争に積極的に関与しません。

1941年、真珠湾攻撃が行われ太平洋戦争が始まりました。1942年にミッドウェー海戦で敗北したことを契機に、日本は劣勢となります。戦争が激しくなると、満州国に対しても中国から爆撃機が飛来するなど戦争に巻き込まれていきました。

1945年8月8日、満州国と国境を接するソ連は日本に対し、日ソ中立条約の破棄を通告。満州国領内にソ連軍がなだれ込んできました。

満州国を防備する関東軍は兵力・装備ともにソ連軍に対抗できる状態ではありません。そのため、戦いはソ連軍の一方的な勝利に終わります。

溥儀は飛行機で日本脱出を図りましたが、脱出前にソ連軍に身柄を抑えられます。その後、溥儀はシベリアの強制収容所に抑留されました。

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