中国の歴史

北方の征服民族であった「女真族」と二つの征服王朝をわかりやすく解説

中国大陸には様々な王朝が栄えていっては滅んでいきましたが、王朝全部が漢民族による王朝ではなく、ところどころで異民族によって支配される王朝がありました。 今回はそんな王朝を築き上げた異民族である女真族について解説していこうと思います。

女真族とはどんな民族なのか?

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女真族は中国東北部の満州と呼ばれる地帯に居住していた半農半猟の民族です。

この女真族のルールはツングース系だったと言われており、元々この満州の地方を治めていた渤海国もこのツングース系の民族であったと言われています。

ちなみに、女真族の名前の由来は中国人が女真族が住んでいた地域に訪れた時に「あなたたちは何者だ?」と質問したところ、「ジュルチン(満州語で人間)だ」と返したことから女真という名前が当てられたそうです。

女真族の王朝の成立

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中国東北部に居住していた女真族。この民族は金王朝が建てられる以前は渤海国などを建てたものの、他の民族によって支配されることがほとんどでした。

しかし、11世紀に入ると女真族は独自の王朝を作り、さらには中国の中心部を脅かす存在へと変わっていったのです。

遼による過激な支配

時は10世紀。この時代中国東北部を治めていたのは契丹族の王朝であるという国でした。

遼は中国史上はじめての征服王朝だと言われており、中国の中心部に影響力を伸ばすほど強大な国だったそうです。

しかし、この遼という国には契丹族以外にもたくさんの民族が暮らしており、今回の主人公である女真族もその中の一つでした。

遼は女真族に対して激しい収奪を開始。重税をかけて女真族を度々いじめ抜く行動が目立つようになり、女真族は自らの王朝を建てて遼から独立したいと考え始めるようになりました。

特に、完顔部を治めていた完顔阿骨打は周辺の民族をまとめ上げついに王朝を立てる決意をします。

金王朝の成立と遼の滅亡

完顔阿骨打は完顔部の族長として遼から支配をすることを認められるようになりましたが、1114年についに阿骨打は遼に対して反旗を翻るようになり、翌年には皇帝に就任。自ら建てた王朝の名を大金として遼を一気に畳み掛けていくようになりました。

阿骨打はこれまで遼に苦しめられてきた北宋と海上の同盟という同盟関係を結び南北から挟撃する案をたて、遼の首都である燕京(現在の北京)に総攻撃を開始。遼の皇帝であった天祚帝は燕京から逃走して遼のほとんどの支配地域を手に入れることに成功します。

靖康の変と中国の南北分裂

こうして遼を滅ぼした金でしたが、同盟関係を結んでいた北宋は金に対して挑発行為を繰り返し、さらには金に対して侵略行為をする動きも見せたため、阿骨打の跡を受け継いだ太宗は1125年に北宋に侵攻を開始。

靖康の変と呼ばれる大戦争が起こり、官僚政治と化していた北宋は全く歯が立たずに敗北。

北宋の皇帝一家は金に拉致されてしまい、金の領地にて骨を埋めることになりました。

(ちなみに、北宋は皇帝の弟である高宗によって南宋が建国されます)

金の衰退と滅亡

こうして中国大陸においても覇を唱えた金でしたが、中国大陸に都を置き始めてから金は女真族の雰囲気が徐々に薄まっていき、ある程度の政治は行なっていきますが軍事が徐々に弱体化していくことになりました。

さらに金の北東部では蒼き狼と呼ばれているチンギス・ハンがモンゴル高原を統一。元々金に服従していたチンギス・ハンでしたが、金が弱体化していることを知ると断交を決意。

1211年にはモンゴルご自慢の騎馬隊を使って一気に金の領土を牛耳り1212年には反乱が起こって分裂。1214年には河南の開封に都を置きましたが、これが和議の内容違反だとして再侵攻を開始。20年もの間河南の地にてモンゴル軍の侵攻から耐えていましたが、最終的に1234年に滅亡することになります。

金の滅亡から後金の樹立まで

こうして金は河南の地にて滅亡することになりましたが、元々の本拠地であった満州の地にいた女真族はモンゴルに服従して満州地方から朝鮮地方にかけてある程度の自治権を持つことになります。

元がモンゴル高原へと撤退して明が建国されると女真族は部族ごとに役所を置いて間接統治を実施。建州女直・海西女直・野人女直の三つのカテゴリーで治めていたのです。

しかし、明は官僚政治が仇をなしてしまい徐々に衰退。そして17世紀に入ると女真族の中でも建州女直から中国大陸を統治する大帝国が誕生することになるのでした。

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