中国の歴史

5分でわかる中国の官吏登用試験「科挙」歴史と影響をわかりやすく解説

3-2.科挙の意味とは何だったのか

科挙は、科目を設けてその選抜選挙をするという意味です。すなわち、科目というのは、農政、算術(予算や実施結果の集計)、外交などの分野を言います。そこで活躍できる人を制限のない公平な試験制度の合格者から選抜しようというものです。

しかし、実質的に大きな効果が出たのは、唐の後の宋(北宋)の時代でした。唐の時代にはまだまだ貴族などが力を持ち、経済なども支配していたのです。科挙の試験を通るためには、受ける人それぞれが各分野の専門家を招いて勉強する必要があり、そのような勉強ができるのは貴族やよほどの金持ちに限られていました。

3-3.唐時代の科挙制度の推移

唐時代には、よく知られている則天武后という中国でも3代悪女に数えられる唯一の女性皇帝による国の簒奪がおこなわれています。この事件の背景には、中国の政治組織が高位の貴族たちに握られていたことに対する反発があったのです。一時的に科挙などに受かった人たちの抜擢がおこなわれていましたが、その後再び高級貴族たちによる政治支配に戻っています。しかし、科挙制度の出身者が中央政治から外され、地方の節度使などに派遣された結果、地方で権力と富を蓄えた節度使が現れ、安史の乱などが起こって、唐王朝は衰退したのです。

唐代の後半から宋(北宋)の時代にかけては商業が発展し、貴族でなくても金持ち層が増えたことも科挙制度出身の官僚が力を持った背景もありました。そのため、一般の人たちでも勉強することが可能になり、勉強をして出世しようという人は増えたのです。

4.科挙制度の歴史とその内容の変化

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科挙制度は、歴史的に各王朝によって試験科目の難易度や選抜の意味合いが違っていました。

漢民族(中華民族)の王朝であれば、かなり高い知識が要求され、それゆえに唐時代には学問の勉強が可能な貴族などの家柄のよい人が受験者の中心になっていたのです。それでも、隋王朝より前のように、裕福な有力貴族の子弟が能力もなく、出世していくことに比べると能力のある貴族が政治の中枢になるようになったのは大きな違いでした。

4-1.異民族王朝における科挙制度の意味合い

異民族王朝では、もともと知識のある人が少なく、元王朝、清王朝などでは比較的身分の低い人でも一定の知識があれば、その能力に応じて採用され、出世することができたようです。異民族が統一王朝を作った時には、漢民族を統治するためには漢民族(中国人)の知識人を採用することが必要でした。

チンギスハンの孫であるフビライハンによって成立した元(げん)王朝などでは、伝統的に能力の高い漢人が求められています。武力では漢民族を圧倒でき、文化面でその民族の風習を普及させられても、億単位の漢民族を統治する術は、漢民族の知識が必要だったのです。

モンゴル民族の元王朝でも、女真族の清王朝でも科挙制度の重要性は漢民族の王朝よりもより高かったのでしょう。漢詩などの漢民族としての文化レベルの高さや国の方針に対する臨機応変の提言力が求められたのです。

そのため、異民族王朝であっても、官僚は上から下まで漢人(中国人)がほとんどを占めていたました。

4-2.初期の隋・唐王朝の科挙制度

一方、科挙制度が始まった初期の隋王朝や唐王朝では、まだ大きな成果は見えませんでした。すなわち、科挙の試験では広範な知識が必要とされ、そのためにはそれを勉強するためには多額の資金が必要となり、やはり下級層の人たちには無理だったのです。

隋王朝のように異民族の場合には、優秀な漢人を選抜するため、比較的低い身分でも受けることができました。しかし、異民族の隋王朝は長続きせず、漢民族の王朝の唐代になると、やはり貴族のようにもともと裕福な家庭の人しか受けられなくなっていたのです。

その意味で、唐時代には充分に下級身分のものが高い地位に登用される例が少なかったと言えます。一般の能力の高い人を登用しようという本当の意味での科挙制度の良さが充分に発揮されたとは言えませんでした。

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