アメリカの歴史植民地時代

インディオたちを助けようとした神父「ラス・カサス」を元予備校講師がわかりやすく解説

16世紀初め、中南米に赴き、植民地支配の実態を知って先住民であるインディオたちの待遇改善と奴隷身分からの開放を訴えたのがドミニコ会の宣教師ラス・カサスでした。ラス・サスが書いた『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は国王カルロス1世を動かします。しかし、現地の植民者たちの激しい抵抗にあい、ラス・カサスの運動は成功しませんでした。今回はスペインの植民地支配とラス・カサスの活動について、元予備校講師が分かりやすく解説します。

スペインによる新大陸の征服

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1492年、インドに向かうための西回り航路を開拓しようとしたコロンブスはエスパニョーラ島に到達。図らずもヨーロッパ人の知らない「新大陸」を発見しました。「新大陸」といっても、そこにはインディオたちが住み、アステカ王国やインカ帝国など高度な文明を持った国々も存在します。スペイン人たちはあらゆる手段を使って中南米を征服しました。

コロンブスの新大陸到達

ジェノヴァ生まれの航海士であるコロンブス(クリストバル・コロン)は、トスカネリ地救球体説をもとに、インドに到達するにはアフリカを経由する東回りよりも、まっすぐ西に進む西回りのほうがよいと主張。スペイン女王イザベルに資金援助を得ることに成功しました。

1492年、コロンブスはサンタ・マリア号を旗艦とする3隻の艦隊でインドを目指します。コロンブスの艦隊は島影すらない大西洋をひたすら西に進みました。1492年、コロンブスはカリブ海の島に上陸します。コロンブスはこの島をサン=サルバドル島と名づけました。

コロンブスは島の住民達が武器を持っていないこと、体つきがよく奴隷として使役する出来ること、キリスト教に教化しやすいであろうことなどを記しています。インディオたちにとって、コロンブスとの出会いは不幸の始まりでした。

スペインとポルトガルによる世界分割を決めたトルデシリャス条約

コロンブスの新大陸到達により、スペインはポルトガル衝突する可能性がありました。今後発見するであろう土地の権利を確保するべきだと考えたスペインは、ローマ教皇の調停を求めます。1493年、教皇アレクサンドル6は調停案として教皇境界線を提示しました。

アレクサンドル6世がスペイン出身であることから、スペインよりであると考えたポルトガル王ジョアン2はスペインに再交渉を要求します。その結果、両国の境は西経46度37とされ、境界の東側はポルトガル領、西側はスペイン領となりました(トルデシリャス条約)。

トルデシリャス条約締結後、ポルトガルによって派遣されたカブラルはブラジルに到達しました。カブラルが到達した地点は西経46度37分より東だったため、ブラジルはポルトガル領となります。

コルテスのアステカ制服

トルデシリャス条約の締結後、スペイン人たちは中南米の征服に乗り出します。軍を率いてインディオを征服した者たちを征服者コンキスタドール)といいました。

1519年、征服者の一人となるコルテスはメキシコにあったアステカ王国の攻略を目指します。コルテスはメキシコに植民都市ベラクルスを建設。アステカ攻略の準備を整えました。この間、アステカ人と敵対するトラスカラ人と数度にわたって戦い、彼らを打ち破って従わせることに成功します。

1519年10月、コルテスはアステカの首都テノチティトランに到着しました。コルテスはアステカ王モンテスマを偽って拘束。アステカ全土から金銀をかき集めます。その後、一度は都のテノチティトランを放棄しましたが、体勢を立て直したコルテスはテノチティトランを再征服。1521年にアステカを完全に滅ぼしました

ピサロのインカ征服

1513年、スペイン人のバルボアパナマ方面への遠征を行いました。この時、バルボアの副官として遠征に参加したのがピサロです。ピサロはバルボアも探していた黄金帝国を見つけ出そうと南方への探検をおこないました。

1532年、ピサロは現在のエクアドルに上陸。周辺を探索中にインカ帝国の領内に貼ります。インカ帝国はケチュア族が建国した国で、高度な文明を誇っていました。インカ帝国の領土にはよく整備されたインカ道があり、ピサロはインカ道を通って帝国の中枢部に向かいます。

インカ領内を進撃したピサロ率いるスペイン軍はカハマルカでインカ王アタワルパの軍と遭遇しました。スペイン軍は火砲を用いてインカ軍を急襲。2000人以上を倒したうえ、アタワルパ王を捕虜とします。その後、インカの首都クスコに攻め込んだピサロは略奪をほしいままにし、インカ帝国は滅亡しました。

エンコミエンダ制度とインディオの人口急減

アステカやインカ帝国を滅ぼしたスペイン人たちは各地を植民地として支配します。スペイン政府は入植者が現地のインディオをキリスト教化することを条件に、入植地の支配とインディオの事実上の奴隷化を認めました。この仕組みをエンコミエンダ制といいます。

スペイン人入植者たちは、インディオを鉱山や大農園での強制労働に従事させました。入植地ではインディオたちの犠牲のもとに銀の採掘やサトウキビの栽培がおこなわれ、入植者たちの懐を潤します。

その一方、劣悪な条件で酷使されたインディオたちの境遇は悲惨を極めました。そればかりか、インディオたちはヨーロッパから持ち込まれた天然痘やペストなどの感染症に罹患。強制労働の犠牲と感染症の犠牲によりインディオは急速に人口を減らしました

ラス・カサスの活動

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Unidentified painter – Informations source : National Geographic & Álvaro Huerga, Bartolomé de Las Casas: Vie et œuvres., パブリック・ドメイン, リンクによる

スペイン人入植者によるインディオに対する凄まじい扱いを記録し、告発したのが神父のラス・カサスでした。ラス・カサスはドミニコ会の修道士で、最初は入植者の一員と行動しますが、二度の改心を経て、スペイン人入植者によるインディオの虐殺・虐待を告発。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』でエンコミエンダ制の弊害を強調。制度の廃止とインディオの保護を訴えました。

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