幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

蘭学者にして軍略家「大村益次郎」を元予備校講師がわかりやすく解説

第二次長州征討(四境戦争)での勝利

1864年、京都での禁門の変に敗北した長州藩は幕府軍による追討を受けました。第一次長州征討です。このとき、長州藩は幕府に降伏。責任者の家老3人が切腹しました。1864年12月から翌年3月にかけて、高杉晋作が諸隊を率いて功山寺で挙兵。幕府恭順派を打ち破り藩の実権を握ります。

1866年、幕府は再び長州征討の軍を起こしました。大村は四方向から攻め込む幕府軍に対抗するため武士以外の平民も組み込んだ諸隊を藩の指揮下に置き統括。隊の指揮官たちに戦術を徹底的に教え込みます。それまで有志による志願兵に過ぎなかった諸隊は機動力を持った近代的な軍隊へと変化しました。

また、幕府軍と戦うため最新の武器を購入します。大村自身は4方面の内、山陰方面である石州口の実戦指揮を行いました。大村は浜田藩領に侵攻し浜田城を占拠幕府直轄領の石見銀山も接収します。戦争全体でも長州軍が幕府軍に勝利しました。

新政府での活動

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第二次長州征討で活躍した大村は戊辰戦争の開始とともに活躍の場を新政府へと移します。旧幕府残党の彰義隊が上野の寛永寺立てこもった時は、万全の準備を整えたった一日で彰義隊を壊滅させるなど軍事的才能を発揮しました。新政府において近代的な軍隊をつくる役割を与えられます。

戊辰戦争の始まりと新政府への仕官

1867年、王政復古の大号令が発せられ京都に新政府が誕生します。新政府は小御所会議の決定にもとづき徳川慶喜に内大臣の辞任と領地の返上を命じました。

これに納得がいかない旧幕臣たちは慶喜を突き上げ、京都に向けて軍を進めます。1868年1月3日、新政府軍と旧幕府軍は鳥羽・伏見で激突。戊辰戦争が始まりました。

事態の急変を受けて長州藩では世子の毛利広封が兵をひきいて京都に向かいます。大村も広封に同行し京都に入りました。

1868年2月、大村は新政府の軍事担当者となります。大村は諸藩から差し出された兵を御所警備の兵として訓練しました。

また、明治天皇の大阪行幸に同行し、海軍の閲兵や陸軍の観閲式を指揮します。このころ、新政府軍は北陸・東山・東海から東に向けて進軍していました。

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