上野戦争
1868年3月、江戸に迫った新政府軍の西郷隆盛と、幕府を代表する陸軍総裁の勝海舟の会談が行われました。その結果、江戸城総攻撃は回避。江戸城は無血開城し新政府に明け渡されます。
これに不満を持った旧幕臣は北関東や上野の寛永寺にこもって新政府に抵抗の姿勢を示しました。特に強い力を持っていたのは寛永寺に駐屯する彰義隊です。西郷や勝は彰義隊などの動きをコントロールできずにいました。
1868年4月21日、大村は江戸府判事、軍務官判事として江戸に着任します。江戸城の宝物を売却するなどして軍事費をねん出し、新政府軍の態勢を立て直しました。
1868年5月15日、準備万端整えた大村は寛永寺の彰義隊に対して総攻撃をおこないます。いわゆる、上野戦争です。計算しつくされた新政府軍の攻撃に対し、彰義隊はなすすべなく敗走。わずか1日で決着がつきました。これにより、大村の名はさらに高まります。
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新政府の軍制改革
戊辰戦争の後期、大村は江戸にいながら東北地方で展開する戦闘全体の指揮を執りました。的確な兵力移動により、新政府軍は奥羽越列藩同盟軍に勝利。五稜郭の戦いで旧幕府残党の榎本武揚が降伏したことにより、戊辰戦争は終結します。
新政府の軍編成を担当した大村は、近代的な軍の創設を目指しました。この当時、大村は徴兵制や鎮台制、兵学校の設置、廃刀令などを考えています。これらは、大村死後に実現し、明治陸軍の基礎となりました。
しかし、このときは大久保利通や岩倉具視が反対したため、実現できません。自分の提案が退けられ嫌気が差した大村は辞表を提出しますが、慰留されます。大村は政府にとどまり、新たに設置された兵部省の次官にあたる大輔に就任しました。
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志半ばでの死
1869年9月4日、大村は京都の旅館に滞在中、元長州藩士らの襲撃を受け全身に傷を負いました。特に足に受けた傷は深く、すぐにでも切断が必要でした。ところが、切断に関する勅許を得るのに手間取り症状が悪化。同年10月27日に死去しました。大村は志半ばでこの世を去りますが、彼の理想である徴兵制による近代的な軍隊の創設は山県有朋に引き継がれます。その意味で、大村は日本陸軍の生みの親ということができますね。
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