安土桃山時代日本の歴史

豊臣政権末期を支えた「五大老」とは?「五奉行」とどうちがう?

前田利家(83万石)秀吉が最も頼りにした男

前田利家は1539年生まれ。秀吉とほぼ同世代の戦国武将です。

もともとは、尾張国(現在の愛知県の一部)の生まれと伝わっています。

織田信長に仕え、戦で功績をあげつつ昇進。なかなかの荒くれ者だったとか。若い頃から槍の名手として知られていたそうです。

同じく織田家家臣であり有力戦国武将であった柴田勝家のもとで、主に北陸方面の制圧に当たっていました。

織田信長が本能寺の変で討たれ、柴田勝家と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の間で勢力争いが起きたとき、利家は勝家側につきます。しかし利家は、若い頃から秀吉とも交流があり、位が低い頃から苦楽をともにしてきた仲でもありました。

柴田勝家と羽柴秀吉の間で、どちらに味方すべきか苦しむ利家。最終的に秀吉が勝利し、利家も秀吉と手を結ぶことになります。

秀吉から五大老の役割をおおせつかったときは、体力的にかなり衰弱していたとか。病に伏せるようになっても、秀吉の忘れ形見・秀頼の行く末を案じ、北陸から秀頼のもとを訪れることもあったようです。

晩年は、家康の動向を気にしつつ、この世を去ります。

上杉景勝(120万石)上杉謙信の後継者

上杉景勝は1556年生まれ。豊臣秀吉や徳川家康よりひとまわり若い戦国武将です。

生まれは越後(現在の新潟県のあたり)。かつて「越後の虎」と恐れられた軍神・上杉謙信の甥っ子にあたり、実子のいなかった謙信の養子となって上杉姓を名乗ります。

謙信の時代、上杉家は織田信長と敵対関係にありました。本能寺の変の後は、秀吉に味方し、手を結びます。

秀吉の北条討伐(小田原攻め)のときも、前田利家らとともに前線に出ていました。

豊臣政権になってからも秀吉に従い、家康をけん制することもあったようです。

関ヶ原の戦いのときは石田三成らとともに西軍に属し、敗北。家康に降伏せざるを得ない状態になります。

その後、家康に直接謝罪を試み、何とか家の取り潰しだけは回避。石高を30万石に減らされ、米沢(現在の山形県のあたり)に移ることとなります。

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