安土桃山時代日本の歴史

豊臣政権末期を支えた「五大老」とは?「五奉行」とどうちがう?

毛利輝元(120万石)ちょっと頼りない殿様

毛利輝元は1553年生まれ。家康より少し若い世代の戦国武将です。

生まれは安芸国(現在の広島県のあたり)。有名な「三本の矢(三子教訓状)」の逸話に登場する3兄弟のうちのひとり、毛利隆元の長男です。

若い頃から、中国地方の勢力争いに参戦。尼子攻めなど数々の戦に加わっています。

父・隆元が戦で命を落としたため、11際で毛利家の当主に。このときまだ、祖父の元就が存命だったので、祖父の支えを受けて、毛利家の統括に力を尽くしていました。

輝元については「優柔不断だった」という話が残っています。偉大な父と祖父の影響か、苦労知らずで、戦乱の駆け引きなどと縁遠い人柄だったようです。

織田信長とは対立関係にあり、羽柴秀吉の水攻め(備中高松城の戦い)を受けたことも。信長亡き後は秀吉と講和し、以後は秀吉に従います。

輝元は九州や四国攻めに出向き、秀吉の天下統一に大きく貢献しました。

五大老として信頼されていた輝元は、関ヶ原の戦いのとき、西軍の総大将となります。

しかし輝元は、総大将だというのになぜか出陣はせず。大坂城に留まったままで、家臣たちを現地へ向かわせます。

しかも戦が終わったことを知った輝元は、大坂城を後にして領地へ帰ってしまうのです。

その後、毛利家は長門や周防(現在の山口県のあたり)へ移動し、30万石ほどに減封。かなり縮小されますが、何とか毛利家存続にはつながります。輝元は長男に家督を譲り、出家して余生を過ごしたのだそうです。

宇喜多秀家(57万石)秀吉の養子だったのに

宇喜多秀家は1572年生まれ。五大老の中では最も若い武将です。

もともとは、備前国岡山を治めていた宇喜多家の長男でした。宇喜多は織田家の家臣を務めていたため、秀家が家督を継いだ後も信長に仕えます。

秀家は信長の命を受け、中国地方攻めに参戦していました。秀吉による備中高松城の水攻めの際も、秀吉に協力しています。

信長の死後は秀吉に従うことに。秀家の「秀」の字は、元服の際に秀吉から授かったのだそうです。

秀家は秀吉に大変気に入られていました。そのせいもあって、まだ子どものいなかった秀吉の養子に入ります。秀吉の養女を妻に向かえ、豊臣一門として扱われることとなったのです。

その後も、秀吉の天下統一に大きく貢献。朝鮮出兵にも力を尽くし、秀吉から絶大な信頼を得ます。若くして五大老に名を連ねるまでになりました。

しかし秀吉没後は、家臣たちの足並みが揃わず、宇喜多家はグラつきはじめます。

関ヶ原の戦いでは当然西軍につきますが、敗戦後は宇喜多家は改易。秀家は逃走し身を隠します。

捕縛後は八丈島へ流刑に。生涯、八丈島で過ごしてこの世を去ります。

それぞれの心の内はいかに?豊臣政権と「五大老」

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「五大老」といえど、末路はそれぞれ。戦国時代の激しさを垣間見ることができます。常に語られることだとは思いますが、もし太閤秀吉に子供が生まれていなかったら、秀頼が誕生していなかったら、歴史はどうなったでしょう。私たちの生活にも何かしら影響があったのでは……と考えてしまいます。でも、家康とそのほかの大名たちの力の差を見ると、遅かれ早かれ、徳川の時代がやってきたのかな、とも。推測の域を出ませんが、五大老たちがおのおの、どんな思いを抱いていたのか、感慨深いです。

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