法隆寺と聖徳太子
篤く仏法を敬うことで知られた聖徳太子こと厩戸王は、天皇の宮がある飛鳥から北西にあたる斑鳩の地に移住し法隆寺を造営させます。622年に聖徳太子が亡くなった後も、法隆寺は存続しました。古代日本の正史である『日本書紀』によれば、670年に法隆寺が炎上したとあります。しかし、法隆寺が創建当時のままか、火事で一度失われてから再建したかは議論が分かれるところですね。
聖徳太子と仏教
574年、聖徳太子はのちに用明天皇となる大兄皇子の子として生まれました。幼いころから聡明だった聖徳太子は、仏教を厚く信仰します。
用明天皇の死後、次の大王に誰を推すかをめぐって、大臣の蘇我馬子と大連の物部守屋が激しく対立。蘇我馬子は物部守屋が推す穴穂部皇子を殺害し、物部守屋と決戦に及びました。この時、聖徳太子は仏教推進派の蘇我氏に味方します。
聖徳太子は、戦いのさなかに四天王の像をつくり、仏に戦勝を祈願しました。聖徳太子は戦いに勝利したなら、仏塔を作り仏教を広めると仏に誓約。戦いは、蘇我氏・聖徳太子らの勝利に終わりました。
戦いの後、聖徳太子は四天王寺を建立し、仏との約束を果たします。新たに即位した推古天皇から摂政に任じられた聖徳太子は、蘇我馬子と共に十七条の憲法を発布。十七条の憲法には、篤く三宝(仏・法・僧)を敬えと記し、仏教を広めようとしました。
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聖徳太子の斑鳩移住と法隆寺造営
601年、聖徳太子は飛鳥の北西にあたる斑鳩(いかるが)の地に宮を作り、移り住みました。斑鳩の地は、大和国(奈良県)と西の河内国(大阪府)を結ぶ場所にありました。斑鳩は古墳時代から交通の要衝として発展した場所です。仏教を広める拠点としても、適切な場所だといえますね。
斑鳩宮のすぐ近くに作られたのが法隆寺でした。法隆寺が造営されたのは607年のこととされます。法隆寺は大きく分けて、西院伽藍と東院伽藍に分けられますが、明治時代まで、西院伽藍は一度も焼失していないと信じられてきました。
現在、西院伽藍がある場所のすぐ近くで、推古天皇時代の建物遺跡が発見されます。この寺院跡のことを若草伽藍といいました。若草伽藍跡は創建当時の伽藍配置を現在に伝えているので、創建法隆寺などといわれることもありますよ。
聖徳太子の死と上宮王家の滅亡
摂政に任命された聖徳太子は、蘇我馬子と共に政治をおこないます。595年に高句麗から来日した慧慈は聖徳太子の師として、隋の先進的な制度などを伝えました。
603年、聖徳太子は冠位十二階を制定。隋にならった官僚制度を取り入れ始めます。604年には役人たちの心構えを定めた十七条の憲法も制定し、徐々に国の形を整えました。
614年から615年にかけて、聖徳太子は『三経義疏』を著します。これは、仏教の経典の注釈書ですね。三経義疏の一つで、明治時代に法隆寺が皇室に献上した『法華義疏』は聖徳太子の真筆かどうか、意見が分かれています。
622年、聖徳太子は斑鳩の地で亡くなりました。聖徳太子の死後、遺産を相続したのは山背大兄王です。山背大兄王ら、聖徳太子の一族を上宮王家といいました。
643年、蘇我入鹿は山背大兄王とその一族である上宮王家の人々を攻撃します。山背大兄王は、入鹿に抵抗することで無関係な人々を多数巻き込むべきではないと考え、法隆寺で一族もろとも自害。これにより、上宮王家は滅亡しました。
法隆寺再建・非再建論争
古代に建てられ、現在まで続いている寺院は、戦争による被害や火災などにより、焼失を経験していることがほとんどです。『日本書紀』では670年に、一度焼失したと書かれていました。
ところが、明治時代まで、法隆寺は創建以来、火災に遭わず存続し続けたと考える学者たちがいます。彼らは法隆寺の建築様式が、他に例がない古風な様式であることに注目。日本書記の記述が誤っているのではないかと疑いました。
それに対し、法隆寺が火災に遭い、再建されたと考える人々は日本書記の記述は信ぴょう性が高いと主張します。両者の論争は決め手を欠き、明治時代から現在まで続きました。
2004年、奈良文化財研究所は木材の年代測定から、法隆寺の金堂・五重塔・中門に使用された木材が650年代から690年代に伐採されたものだと判断しました。今後の研究により、再建論争がどうなるのか、楽しみなところです。
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法隆寺に残された重要な建造物
世界遺産とされた法隆寺には重要な建物がたくさんあります。金堂を中心とする西院伽藍は現存する世界最古の木造建築群。奈良時代につくられた夢殿や平安時代につくられた大講堂も非常に貴重な建築物。聖徳太子信仰にもとづきつくられた聖霊院や、鎌倉時代に再建された西円堂など、法隆寺には見どころが多いです。