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幕末維新の立役者「小松帯刀」短い人生に偉大な足跡を残した幻の宰相の生涯を解説

小松帯刀がいなかったら、明治維新は変わっていたという程に歴史上重要な人物。でも、維新十傑の中での存在感は、かなり低いのでは?でも、若くして薩摩藩の家老となったエリートで、薩摩隼人として西郷隆盛らと維新を駆け抜け不滅の功績を残しました。「幻の宰相」と呼ばれる維新の立役者!「小松帯刀」の人生をご紹介したいと思います。

1.「幻の宰相 小松帯刀」生い立ち

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薩摩藩File:Sangoku meisyo zue 1.pdf, パブリック・ドメイン, リンクによる

志士たちが若い命を賭けた明治維新期に、首領格として傑出した人物が今回の主役「小松帯刀(こまつたてわき)」でしょう?明治新政府の基礎を固めますが若くして絶命したため、西郷隆盛と大久保利通が後を引き継ぎ明治新政府の核となり改革を成し遂げたのです。早く逝去しヒーローとなり損ねた帯刀の功績は、あまりにも多すぎるので掻い摘んでご紹介します。それでは、倒幕を推し進めた隠れたヒーロー帯刀の生い立ちから探ってみましょう。

1-1小松帯刀の誕生

小松帯刀は天保6(1835)年10月14日、薩摩国喜入どん屋敷の肝付家(5千500石)で誕生します。肝付家は戦国時代単独の大名で、現在の鹿児島市役所の東隣に広い屋敷がありました。父は喜入領主肝付主殿兼善(きもつきとのもかねよし)、母は重富領主島津山城守忠寛の娘で、第3子(4男とも)として生まれます。幼名は肝付尚五郎(きもつきなおごろう)。肝付兼戈(かねたけ)が前名で、養子にいった後で小松清廉(こまつきよかど)と改名。「帯刀」は通称です。

いわゆるお坊ちゃま育ちで、気が弱く孝心深い母思い。気だけでなく体も弱かったようです。でも、一節によると、両親が次男要之介に目を掛け可愛がっており、寂しい思いをしながら育ったとか。

1-2帯刀の少年時代

幼い頃から書を習い、10歳の時には横山安容(よこやまあんよう)のもとで儒学を学びます。昼間は造士館で学問に励み、夜は起きている限り書を読んでいたという勉強好きでした。和歌に興味を持ち、八田知紀(はったとものり)のもとで歌道を学びます。号を観瀾(かんらん)や香雪齋(こうせつさい)と付け、和歌は一生を通していくつも書いたようです。

この頃薩摩の子供たちがよく聞かされていた、薩摩藩主となる島津斉彬(しまづなりあきら)の若い頃の話を、帯刀も聞きながら育ちます。弘化元(1844)年11月15日に、斉彬の父で藩主の斉興(なりおき)公に初めて拝謁し、弓一張を進上しました。

2.青年期の帯刀

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倒幕派活動家の中で帯刀は、異色の存在でした。なぜなら門閥出身のエリートで、活動家たちは下級武士や農民上りの志士たちが中心だったのです。藩主斉彬の目に留まり小姓として活躍する傍らで、薩摩の藩内組織「誠忠組」を指導する存在でした。それでは、帯刀の青年期をご紹介します。

2-1藩を揺るがす大騒動

帯刀が16歳の時に、斉興の側室お由良が藩を揺るがす大騒動を起こしたのです。正室が逝去したことを利用し、嫡男斉彬以外に生まれた斉興の男児久光を藩主にと謀り、お由良に着いた(誠忠派)重臣たちと斉彬を廃嫡させようと企みます。

それを他の重臣から聞いた斉興は憤慨し、誠忠派赤山靱負(あかやまゆきえ)に切腹など、企みに参加した重臣たちを厳罰したのです。この動きに看過されたのが、先で薩摩藩を背負って立つ、西郷や大久保、高崎らでした。義憤に燃える若者たちは、正義を唱え集結します。お坊ちゃまの帯刀は、正義派グループと縁を持たないように、母の心配で家来を伴に付けられ監視されたようです。

2-2日常を実績に

体の弱さは青年になっても続き、17歳の時に母が心配し勉学を中断し静養を促され湯治をします。湯治場は格好の情報収集場所とし、帯刀は身分を隠し世間話に耳を傾けていたようです。近侍の人々から、才知が衆より優れ、決断もよい人だと語られています。

この頃は枇杷に熱中するも、「祖先の功績に傷を付けない人に」と家令に諫められ、涙ながらに糸を切り棚の奥深くに押し込み一生触ることはなかったようです。その代わりに、勉学はもちろん武術や馬術に時間を費やすようになります。湯治場での姿勢や勤勉ぶりと素質を見抜いた師匠の横山安容から斉彬公に推薦され、安政2(1855)年に21歳の若さで奥小姓御近習番を拝命しました。若い頃には藩命で、長崎に遊学し西洋軍事学も学びます。

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ちょっと雑学

実は帯刀は温泉好き!中でも温泉の宝庫とされる、霧島温泉を好んだようです。当時温泉場では、1週間から10日くらいを目安に滞在し、朝昼晩と多種多様な泉質に入っていました。帯刀は、中でも、栄之尾温泉を賄いつきで使っており、品のいい好青年と噂されていたようです。

2-3斉彬の元着実に出世する帯刀

6月~8月という僅かな間ですが江戸詰めとなり、斉彬公の御近習番奥小姓として仕えます。そこで、世界情勢や日本の現状などを話し、小姓たちの人材育成に力を入れる斉彬から薫陶を受けたようです。斉彬は自慢の地球儀を用いた教育をよく行っていたとか。

斉彬に一目置かれる重臣で吉利(よしとし)の領主だった、小松清猷(こまつきよもと)が琉球使節役となり赴任中に亡くなったのです。嫡子がない清猷の妹千賀の婿養子となり、2,600万石の小松家を継ぐよう斉彬から命を受けます。3男では肝付家を継げず、千賀は年上でしたが棚ぼたといえるでしょう。しかも、小松家は一所持ちの家格の領主で、力量によっては家老職になれる絶好のチャンスだったのです。

両家は550mしか離れていませんが、帯刀も千賀も面識がありません。千賀も噂通りのイケメンで貴公子だった帯刀に、まんざらでもなかったようです。千賀が国興し運動で京や江戸を行き来する帯刀を、愚痴もいわず内助の功で支えたので大仕事を成し遂げられたとか。吉利領主第29代を継ぎ、名前を小松尚五郎とします。でも、小松家の実情は2つの派閥があり権力争いが絶えず、道義も民風も廃れていました。その乱れた吉利の風紀を帯刀は、庶民目線で改革し立て直したのです。

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