大正日本の歴史明治

高い危機管理能力を見せた財政家「高橋是清」を元予備校講師がわかりやすく解説

日本銀行に入行

ペルーでの銀山投資に失敗し、無一文となっていた高橋是清に声をかけたのが日本銀行総裁だった川田小一郎でした。

川田は高知県出身の財政家で岩崎弥太郎の補佐をすることで頭角を現します。岩崎弥太郎や弟の弥之助を支えたのち、岩崎久弥が副社長に就任したタイミングで三菱を退社。薩摩出身の政治家である松方正義の推薦で日本銀行総裁となっていました。

川田は是清を建設中の日本銀行本館の建築事務主任とします。是清は川田の信任に応え、遅れていた工期を短縮し完成にこぎつけました。

是清の手腕を認めた川田は是清を九州全域を管轄する西部支店の初代支店長とします。さらには海外貿易で重要な役割を果たしていた横浜正金銀行の本店支配人にもなりました。こうした経験によって是清は国際金融を学びます。

日露戦争の外債募集

1904年、日本は朝鮮半島や満州をめぐってロシアと対立。日露戦争が始まりました。戦争にかかる費用は日本の年間国家予算をはるかに超える17億円。そのうち、国内からの募集で不足する7億円を海外から調達しなければなりませんでした。

この当時、日本銀行の副総裁となっていた是清は戦費調達のため、同盟国であるイギリスにわたります。

是清は、日露戦争が日本にとって自衛戦争であることや日本には支払い能力が備わっていること、日本の債務を引き受けてもイギリスは中立違反にならないことなどを訴えました。

また、是清はユダヤ人銀行家のジェイコブ=シフと接触します。シフは是清の求めに応じ、募集金額の半分にあたる500万ポンドをひきうけました。その後もシフは他のユダヤ系銀行などとの橋渡し役を務めます。

シフが日本に協力した理由の一つは、ロシア帝国が行っていた反ユダヤ主義であるポグロムへの報復でした。外債募集に成功した是清は日露戦争の勝利に大きく貢献します。

政治家高橋是清

日露戦争勝利後、是清は貴族院議員になり1911年には日本銀行総裁となりました。総裁辞任後、是清は政界に転じ山本権兵衛内閣や原敬内閣の大蔵大臣となります。

是清が立憲政友会に入ったのは原内閣の時でした。1921年、卓越した指導力を持った原が暗殺されると、内閣総理大臣に就任します。しかし、あまりに準備不足での登板だったため、是清は政友会の混乱を鎮めることができず、わずか半年余で内閣総辞職となりました。

1924年、清浦奎吾が超然主義の立場をとり、議会を軽視した政治をおこなうと是清は憲政会・革新倶楽部とともに護憲三派を形成。第二次護憲運動を起こして清浦内閣に対抗しました。

1924年の総選挙で護憲三派は議席数を増やし、清浦内閣を退陣に追い込みました。1925年に政友会の総裁を田中義一に譲り、政界を引退しました。

昭和期の日本経済を救った仕事人

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1920年代後半から30年代前半にかけて、世界経済は大きく揺れ動いていました。日本では1927年の金融恐慌、1931年の昭和恐慌と恐慌に次ぐ恐慌で危機的状態となります。日本経済が危機に陥るたびに大蔵大臣となって混乱を収束させたのが高橋是清でした。是清は膨張しすぎた予算を縮小させようとしたことから軍部と対立。二・二六事件で暗殺されてしまいました。

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